既刊の全集に、新たに200点の文書と400頁の参考史料を加えた「決定版全集」!
高杉晋作史料 全3巻 限定580部番号入
一坂太郎編 田村哲夫校訂
A5判上製函入・計1500頁

■編者の一坂太郎氏は、兵庫県芦屋市出身。少年の頃からの「高杉晋作狂」で、大学卒業後は「晋作史料の宝庫」下関の東行記念館副館長・学芸員を経て、現在は萩博物館・高杉晋作資料室長。
展示・執筆・講演活動などを通じて、高杉晋作の顕彰にすべてを尽くしている人です。

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▽『高杉晋作全集』、『東行先生遺文』との相違点

 高杉晋作関係の史料を集めた文献には『高杉晋作全集』上下(奈良本辰也監修 堀哲三郎編集昭和49年刊行 以下『全集』と略す)と『東行先生遺文』(東行先生50年祭記念会編 大正5年刊行 以下『遺文』と略す)があり、これまで晋作研究の典拠とされてきた。
 今回刊行する『高杉晋作史料』(以下『史料』と略す)は実質的には、維新史研究に新しい頁を画する『決定版高杉晋作全集』の位置を占めるものである。ここに前二著との相違点を略記する。

『全集』に収められた文書は260点なのに対し、その後一坂太郎氏が県内を中心に全国的な調査をおこなった結果、多数の未公開史料が発掘され、『史料』第1巻には459点を収めることができた。

『全集』『遺文』ですでに活字化されている史料も、できる限り「自筆原本」を探してこれに当たり、新たに校訂することに務め、その結果、多くの誤読、誤植、脱落などを改めることができた。また偽文書と思われるものを省き、あるいは分類の変更を加えた。そして『投獄文記』(『獄中手記』)など、永年にわたって所在不明になっていた史料の現在の所蔵先なども確認、掲載することができた。

『全集』『遺文』に収められた漢詩の大半は、後世の改作である。『史料』第2巻には初めて、すべて「晋作自筆のオリジナル原稿」を収めた。また『全集』『遺文』では詩歌や文章の草稿を一旦すべて解体した上、再編されていたため、原本の形態が不明であったが、本書では可能な限り原本を忠実に再現することに務めた。

第3巻の「参考史料」には、晋作と生死を共にした、吉田松陰、久坂玄瑞、木戸孝允ほか多くの「志士」たちの、晋作に関する文書・日記・回顧録など400頁を集めている。これらの文献は『全集』『遺文』に殆んど無いものである。

晋作の肖像画をはじめ貴重な文書、遺品などの写真を全巻の巻頭に各12頁付し、それとは別に揮毫、印譜など50頁に及ぶ写真を掲載し、史料価値を高めている。

『全集』の長所は、書き下し文がついていることである。とくに漢詩は解読が難しいので、改作されたものにせよ、簡単に大意を知ることができ便利である。



「狂」が産んだ完全版
『高杉晋作史料』発刊に寄せて
高杉晋作曾孫 高杉勝

高杉晋作は、雷電風雨に擬せられた行動的な性格の反面で、筆を執ることを好み、墨や硯にもこだわりを見せた人である。彼の没後50年の顕彰行事として、『東行先生遺文』が編集されたのも、そうした晋作の人となりをよく識る人びとが、当時はまだ世に多くあったからであろう。『遺文』はその緒言で「蒐集の範囲広きに渉る能わず編集の期間亦限あり其の遺漏多きは固より止む得ざる所」と自認しているように、完全なものとはいえなかった。だが唯一の晋作資料として、非売品であったにもかかわらず、広くそして長く研究者に重用された。

同書の中で、私の父の所蔵とされている史料が少なくないが、それはいくつもの葛籠に収まって、わが家の押入れにあった。太平洋戦争たけなわのころ、陸軍の将校であった父はすでに戦地にあり、母がひとり当時の不自由な輸送事情をくぐり抜けるようにして、葛籠の疎開を果たした。ほどなくして、わが家は空襲によって一夜のうちに灰燼に帰してしまったから、母の「史料保存作戦」は間一髪の快挙であった。

時代が変り晋作百年祭の1966年、墓所である下関の東行庵に接して「東行記念館」が開設されたので、私は母が救った史料全点を寄託することにした。以後、葛籠の中から展示ケースに移った遺品類は、多数の方に見ていただけたと思う。

この時新しい史料集の編纂が計画され、数年後に『高杉晋作全集』上下2巻が完成した。編者の堀哲三郎氏は、この作業の後半に体調を崩され、惜しいことに発行を待たずに亡くなった。『全集』もまた不備な点少なからずといわれているが、堀氏のご苦心の様子を見聞する機会のあった私は、余りそのことに触れずにおきたい。
しかしこの度は、前の二書を補って余りある完全版というべき『高杉晋作史料』全3巻が登場した。本書には特筆すべき点が多いが、まず第1巻の「往復文書」が、従来より飛躍的に充実したことが注目される。また第3巻における「関係史料」と「参考史料」は、未公開あるいは前書に未収録のものが多く、さながら晋作の側面史のごとき趣きがある。

高杉晋作は、全身全霊をもって事に当たることを「狂」と称し、この語を好んで使ったことはよく知られている。私は『高杉晋作史料』を作り上げた皆さんに、その「狂」を感じる。永年の念願を若くして成しとげた一坂太郎氏、ご不自由なお体をおしてご指導、ご協力下さった田村哲夫氏、出版元としてのマツノ書店の松村久氏、その他この仕事に携われた方々には、それぞれの「狂」があったにちがいない。
そのようなエネルギーを得て、私どもが細細とながら守ってきたあの葛籠の中身が、晋作一三六年祭の今年、改めて生命を与えられたことに私は感動している。


高杉晋作という名の魅力尽きない幕末維新史料集
北海道大学名誉教授・田中 彰 

 
変革激動の幕末期を駆けぬけ、その青春を燃やし尽くした人物の一人に高杉晋作がいる。
 晋作の師吉田松陰が、老成化した肖像で、聖人風のイメージが強いのに対し、彼は奔放自由、型破りの疾風児の趣がある。
 晋作の代表的史料集には、これまで『東行先生遺文』があり、『高杉晋作全集』上下二巻があった。しかし、収集・編集・校訂の面から必ずしも十分なものではなかった。

 この度刊行される『高杉晋作史料』全三巻は、晋作史料収集のメッカ、下関の高杉晋作記念館(東行庵)の一坂太郎副館長が編集し、未公開の晋作史料を含めて刊行に踏み切ったものである。解読にはベテラン田村哲夫氏が不自由な身で全力を傾注したという。
 第一巻は、晋作の書簡と来簡を中心に時代順に配列し、第二巻は、日記や述作その他を収め、第三巻には関係史料、参考史料、さらには引用参考文献一覧等まで付してある。

 そこには、長い間の蓄積がみごとに反映し、幕末維新の必読の史料集となっている。
 原文に忠実にというのが編集の基本方針だから、これらの史料を読みこなすには、読者のそれなりの努力が必要だが、だからこそ史料の新しい読みとりと解釈が可能ともなる。これまでの高杉晋作研究、ひいては幕末維新史研究に一石を投ずることができる史料集といえよう。

 あの晋作辞世の句とされている有名な「面句キ事モナキ世ニヲモシロク 些些生」という一片は、第二巻の「丙寅稿拾遺」(編者が仮に付したもの)に載っており、「一部を除き自筆は管見の範囲にはなく、写本作成時、これらの詩歌がどのような形で残っていたかは知るすべもない」(「解説」)とされている。そこには、「余リ病の烈しケレハ」と前置きされて、「死タナラ釈迦ト孔子ニ追付テ道ノ奥義ヲ尋ントコソ思ヘ」や、「太閤も天保弘化ニ生レナハ何モヘセズニ死メヘカリケリ」など、人を食ったようなものも並んでいる。

 これらは、晋作の自作かどうかは不詳だが、「面白キ事」の句の一人歩きをさらにふくらませ、多彩な晋作の生きざまや死生観を伺い知る史料である。仮にこれが晋作の作ではなくても、人々が晋作をどう見ていたかを推測できるだろう。

 ともかく、この史料集は、高杉晋作という人物をめぐる想像力、創作意欲を刺激してやまない。と同時に、幕末維新という時代の人間の魅力について、改めて目を開かせ、語りかけてくれるのである。




 本書「あとがき抄」
一坂太郎

 ようやくここに『高杉晋作史料』の編纂作業を終え、世に送り出すこととなった。感無量である。せっかくだからここに至るまでの経緯を、少し書きとめておこうと思う。
 史学科の大学生だった十数年前『東行先生遺文』『高杉晋作全集』を座右に置き愛読していた私は、他にも重要な未収史料が存在することを知っていたし、また原文と比べると、誤植や脱落が幾つかあることも気になっていた。

 卒業後、下関市吉田町東行庵にある東行記念館で学芸員の職を得た私は、高杉家史料に身近に接することになり、また各地に残る晋作の史料を調査する機会にも恵まれた。そうした中で、おりに触れて作製、整理して来た原稿やメモ、写真やコピー類はどんどん増え、わが家の書斎や書庫に幾つもの山を成すようになる。

 こうして集めた晋作の史料群を出版したいという夢は、膨らんだ。いま、二十代の頃に新聞やテレビの取材を受けたものを見直すと、必ずと言っていいほど「将来は晋作全集を編纂したい」といった発言をしている。その時期は、晋作百五十年祭となる西暦二〇一六年あたりを漠然と考えていた。晋作百年祭の年に生を受けた私は、その頃、五十になっているはずである。

 ところが出版の時期が一気に早まったのは、徳山市にあり郷土史関係の出版を続けるマツノ書店の松村久氏との出会いがあったからである。松村氏は私に、晋作全集の出版を薦めて下さった。私は、収集した史料を公刊する意義は十分確信していたものの、作成した原稿は読めていない部分も多く、そのままを出版する自信はなかった。やはり五十になるまでは、時間が必要ではないかとも考え、松村氏に相談した。

 そこで松村氏は、山口県文書館の元専門研究員田村哲夫先生を紹介してくれることになった。それまで私は、『萩藩閥閲録』や『防長風土注進案』などを先頭に立ち翻刻した田村先生のご高名は当然知っていたが、面識は無かった。私の世代からすると「雲の上の人」のような、近寄り難い印象も強かった。

 松村氏に伴われ緊張ぎみに山口市の田村先生のご自宅を訪ねたのは、平成十年夏のことである。田村先生は、私も少しだけ索引作りをお手伝いした『定本奇兵隊日記』(マツノ書店)の校訂を済ませ、世に出されたばかりの時期であった。
 松村氏からも聞いていたのだが、田村先生は平成五年二月に交通事故に遭い、首から下にまひが残り、両手両足が動かない状態である。初対面の私にも、ご自分の過去の仕事の思い出を、熱っぽく語られる先生の姿に圧倒させられた。史料に対し、あくなき情熱を持ち続ける先生が「仙人」か「神様」のようにも見えた。

 題名については、すでに『高杉晋作全集』があるので、別のものにしようと田村先生が提案された。もちろん私にも異論は無く、結局『高杉晋作史料』でゆくことになる。また、当初から関係資料も含め三分冊になる予定だったが、田村先生は「上・中・下」ではなく、「一・二・三」にした方がいいと言われた。これからの将来、さらに史料が集まれば「四」として出せる日があるかも知れないという配慮からである。
 以後の田村先生の仕事ぶりは、情熱的だった。こちらが疲れるのではと遠慮するのも無意味なほど、入退院を繰り返しながら、原稿を送れば次々と校正、添削して返して下さった。愛子夫人の全面的な協力もあったとお聞きする。
 晋作の師吉田松陰は「今吾が骨は未だ何れの所に暴露するのか知らず、しかれども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり」(『東行前日記』)といった言葉を残している。あるいは「遺著を公にして不朽ならしむるは、万行の仏事に優る」(『吉田松陰全集』所収「杉民治伝」)と語ったともいう。だからこそ門下生の晋作も、松陰の全集を編纂すべく懸命になっていたことが、その書簡や日記からうかがえる。

 さらにこうした思いは、晋作の弟子と称した田中光顕が残した「高杉の精神気魄の全部といはず、その一部でも、後世に伝へておくことは、高杉の銅像を作るよりも、豊墳高碑を建てるよりも、ずつと有益だと考へてゐる」(『維新風雲・顧録』)という言にも通じる。

 「志」に生き、「志」の上に死なねばならなかった彼らが、自らの生きざまを託した遺文を伝えたいと願ったのは当然と言えよう。だから私も、この本を完成させることが晋作の「万行の仏事に優る」と、信じて疑わない。編纂の過程で何度も壁にぶち当たった時、つねに頭の中をめぐった言葉である。そして私にとっても、二十代から三十代にかけて没頭出来た最も有意義な仕事であった。