側近、関係者の語る人間・山県有朋!
山縣公のおもかげ 付・追憶百話
入江貫一 著
A5判並製函入 500頁

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山縣公のおもかげ・目次
1 先帝御不例・先帝崩御の夜・先帝奉斎・公の祭文・明治神宮と公の信念
2 年末年始の御礼。拝謁の心得・諒闇後の謡曲・有不爲所・勅命に対する弱者・責任・忠臣たるを欲せず
3 私の第一印象・解し難い或物・心意の活動力・矛盾の性格・良心の作用・癇癪・寺内伯の叱言と公の癇癪・神経質と自制
4 智能の人・人を適所に用ふ・『展びる人』と『展びぬ人』・私の経験・賢愚・公私の区別・公の演説と座談・聴聞上手
5 条理の貫徹・攻究心熾烈・独特の研究方法
6 先帝の詔勅・大嘗会の夜・東宮の御渡欧・陛下の御閲兵・御下賜・蜜柑の献上・質素の奨励・御諫言一手引受所・華族制度・人物と上流の教育・霊山参拝・御濠の松・警衛と覚悟・化け物に出会はぬ談
7 健体錬膽の四字、天禀、鍛錬、摂生・三越の塔・公の頭・公の顔貌・宗教観・家庭
8 和歌・庭園・謡曲・茶の湯・刀剣書画骨董・自然の風光・飲食・音曲・囲碁・詩歌の友・文芸的思潮・和歌の譲渡・森寛斎の画・公の書と書翰
9 公の一日・質素・邸宅の話・住家・居間と客室・財産・公と株券
10 市中見物・麦飯・観劇・誕辰の宴・日本外史と歌集・二つの乱れ籠・青赤の鉛筆・迅速を喜ぶ・署名と名宛・絵画・時計と時間・旦那様・行燈袴・紋所・癖
11 始めて宮闕を拝す・用意周到・長岡の逆襲・維新当時の外国干渉・松陰先生・高杉東行・大西郷・廃藩置県の密議・伊藤公・藤公の死・小西郷と大山公・日露戦争挿話
12 欧米旅行・公事に対する熱心・日米関係・政治家の活眼・ビスマーク演説集・人口都市集中の研究・思潮の講究・外交問題・ゲリー氏の頌詞・忿懣の余滴・当局醒めたりや
13 公の後継者と部下・乃木大将の自刃・桂公の内大臣・桂公の秘策と公の反対・桂公の元老押込策・伊藤公の日露協定策と日英同盟・第三次桂内閣の出生と公の決意・大隈内閣、寺内内閣、原内閣・元老会議・皇室中心主義
14 辞表奉呈・優詔・聖上の御見舞・最後の病気と家人婢僕・死の予知・まだ死なぬ・病室の臭ひ・絶筆・両元老両雄の永別・嬉しき一事
15 誄 詞

  附 山縣元帥追憶百話
(前内閣総理大臣)高橋是清、(陸軍大将)田中義一、(樞密院議長)清浦奎吾、(陸軍中将)長岡外史、(前司法大臣)尾崎行雄、(日本銀行副総裁)木村清四郎、(前農商務大臣)仲小路廉、(内大臣)平田東助、(前陸軍大臣)大島健一、(東京市長)後藤新平、(台湾総督)田健治郎、(朝鮮総督府政務総監)有吉忠一、(樞密顧問官) 金子堅太郎、平山成信、有松英義、曽我裕準、石黒忠直、古市公威、細川潤次郎、中村雄次郎、(樞密院書記官)村上恭一、(宮中顧問官) 井上通泰、(皇后宮大夫) 大森鍾一、(衆議院議員)下岡忠治、横田千之助、工藤十三雄、松本剛吉、(貴族院議員)船越光之丞、上山満之進、児玉秀雄、徳富猪一郎、二荒芳徳、稲田周之助、(前元帥副官)古右荘幹郎、林弥三吉、吉江協中、米村靖雄、渡邊錠太郎、(陸軍々医総監)平井政遒、(陸軍軍医監)賀古鶴所、(陸軍軍医)高橋張輔、(京都帝国大学教授)千賀鶴太郎、(東京府第六中学校長)阿部宗孝、(実業家)大倉喜八郎、澁澤栄一、野々村金五、 高橋義雄、伊東米治郎

『山縣公のおもかげ』を推す
東京大学名誉教授 伊藤隆

 現在手に入れる事が極めて困難になっている本書の復刻は大変に嬉しい事である。
 山県有朋は近代日本のファウンディング・ファーザーズの一人で、近代日本を理解しようとする時に、決して抜かす事が出来ない人物である。しかし、日本陸軍創設者の一人で、「長州陸軍」閥の総帥として、生存中から批判者も少なくなかったが、特に戦後ハーバード・ノーマンなどの、日本の侵略的軍国主義の権化という評価が災いして、とかく冷たい視線を浴びせられる事が多かった。

 岡義武『山県有朋』(岩波新書)がそうした評価に対して冷静な山県像を提示したにも拘わらず、私は歴史家をはじめ、山県評価は依然歪んでいると思い、昨年(平成十九年の事)ハワイ大学名誉教授ジョージ・アキタ氏の傘寿を祝い『近代日本と山県有朋』を編纂刊行し(吉川弘文館)、その中で「近代日本における山県有朋の位置付け」と題して、私見を発表した。その際にも本書を多く活用した。ちなみに昨年は、アキタ氏を含み私を代表者とする山県有朋関係文書編纂委員会編『山県有朋関係文書』全三巻を完結させた(尚友倶楽部・山川出版社)。
 山県逝去直後に、明治四十一年から枢密院議長秘書官等として十四年間近侍した入江貫一が、山県の遺事逸話を、友人の阿部寿準から、伊藤博文の秘書官であった古谷久綱の『藤公余影』のように書く事を勧められて、『山県公のおもかげ』という題で博文館から刊行した。それを入江は各方面に送付して、百人の人に山県についての思い出・追悼文を寄せて欲しいと依頼した。それに対して、送られた文章や入江に対する談話が百集まらぬ内に一周忌が近づいたので、四十八人からの談話の集まったところで、「山県元帥追憶百話」と題して、前に刊行したものに追加して偕行社編纂部から刊行したのが(何故か刊行されたのは昭和五年になっている)今回復刻されるものである。

 入江も談話者も述べているが、事機密に関するものは含まれていない。しかし明治大正期の指導者山県の姿は実に様々な角度から語られている。入江も述べているように、最も活動的な時代の山県を語るべき人は、山県よりも若年の人さえも既にこの世を去り、その時代の山県については、山県やその親近者からの伝聞しかない。従って多くは晩年の山県が語られている。

 山県は機密に亙る事を残さなかった訳ではない。二上兵治家に残された大正期に山県が政治・外交上の自己の行動を詳しく語った記録(実は元来入江貫一が作成に関与し、遺したもので、枢密院が廃止された時に、二上の遺族に渡されたものと思われる)を、私は遺族から国会図書館憲政資料室に寄贈して頂き、『史学雑誌』に連載した後に、『大正初期山県有朋談話筆記』と題して、昭和五十六年に山川出版社から刊行した。実はその後に欠落部分が二上家から寄贈されたが、増補を活字化できないでいる。山県の著名な「大正政変記」もこれの前に連なるものと思われる。山県が入江を相手に比較的最近の事柄を詳しく語り、入江が浄書して、更に山県の字で訂正増補の筆が入っているのである。

 こうした内容は、入江の大正初期の政変についての記述の基礎にはなっているが、具体的な外交問題については本書では窺う事が出来ない。ただ本書で非常に興味を引かれる一つは、山県の外交問題意見についての入江をはじめ数人の記述である。入江は山県の「維新以来我国は屡々苦心を要する境遇に出会ひ、幾度か今から思ふても寒さを感ずるやうな国難にも際会したが、幸にも無事に之を通過したのみならず、殆んど予期しない程の国運の進展を見るを得た、其の間に処し先輩等の苦心は実に容易なものではなかつた」、日本の大国化に伴いいよいよ複雑になる国際関係の中で数倍の困難に遭遇するに違いない、それを後進の人々にしっかりやって貰いたい、という言葉を記し、最後の病中にも「対支対米の関係を憂ひて」いたと書いている。維新前後の困難の克服は「天佑と云つてもよい」もので、「今日から之を顧みれば、懸崖に立つて、千仭の渓を臨むが如き心地する、実にあぶない事であつた」という山県の述懐も記されている。

 その対米問題について、入江は明治末年の米国の満州鉄道の国際管理提案以来、山県が将来におけるアメリカとの衝突を危惧しており、それを避けるべく苦心していたことを述べているが、金子堅太郎は「米国は将来極東に於て必ず大勢力を揮ふ時期が来るに違ひない。故に日米の関係は最も親密円満にし、少しでも衝突の起るやうな事情を作つてはならぬ」というのが、山県の強い意見であったと言い、日米関係が緊張している今日「公を失つたといふことは、日米のみならず延いては世界の一大不幸とせなければならない」とまで述べている。

 山県が軍事のみならず全ての方面について慎重であり、実に研究熱心であり、その上で意見を関係者に伝えていたという事については殆ど全ての人が指摘している。元副官の古荘幹郎の言葉を引用しておく。「閣下が常に研究を怠らず、時勢に後れぬ様に努められた事は、其の謦咳に接した人の皆知る処でありますが、嘗て次の様な嘆声を漏らされた事があります。『自分は従来新帰朝者があれば、必ず其の話を聞くのを楽しみとしたのである、而して其の前には必ず其人の経歴を調べ、報告或は著述等に依りて、其の人の主張なり、其の調査事項なりを予め承知し、然る後其の人の話を聞くを例とした、随て短時間の話でも能く了解し且十分に質問を試み此の疑惑なきを得たのである、然るに大正八年の大患以来其の気力頓に減退し、到底準備を為すの力なし、故に今日は話を聞いても大に興味が薄い云々』と、又以て其の平生の用意を知る事が出来る」と。
時代や状況が異なっていようと、国家の指導者のあるべき姿の一つの典型をここに見いだす事が出来よう。そうした意味からも本書が広く読まれんことを希望する次第である。
部下の見た山縣有朋
萩市特別学芸員 一坂太郎


 「カミソリ」と呼ばれた敏腕政治家の後藤田正晴に、半世紀にもわたり仕えた元部下の佐々淳行が、その体験を基に綴った何冊かを最近上梓している。たとえば、よど号ハイジャック事件や浅間山荘事件において、その危機管理能力がいかに発揮されたかなど、昭和戦後史の裏側がいろいろと垣間見れて興味深い。それらを目にするたび、『山県公のおもかげ』という一冊を思い出す。明治の元勲山県有朋の側近だった入江貫一が著し、大正十一年九月に博文館から出ている。山県が没したのはその年二月だから、没後約半年の出版だ。(今回復刻されるのは昭和五年の増補版)

 入江貫一は山県と同じく長州出身の元勲野村靖の次男である。幕末のころ戦死した、野村の兄入江九一の跡を継ぐ。山口高等学校から東京帝大法科に進み、卒業後は内務省に入って、ついで枢密院書記官・秘書官を兼ね、山県に出会う。入江の記憶では直接の部下で長州人は、四人しかいなかった。

 『山縣公のおもかげ』は何げなく読み始めたら面白くて、やめられなくなるような本である。史料としての価値の高さはあらためて述べるまでもない。私はリーダー論の名著だと考えている。入江は淡々というほど冷たくもなく、かといって感情に流れるわけでもなく、美辞麗句を並べるわけでもなく、実に絶妙なさじ加減で山県という上司をリアルにスケッチしてゆく。

 巻頭の逸話は、枢密院の重要会議に臨席した明治天皇が、議事半ばに眠気を催すという衝撃的な場面から始まる。それに気づいた山県は自ら佩びていた軍刀で、床をコツンと叩く。天皇はハッと気づき、その後はいつものとおりの厳正な態度に戻った。天皇は枢密院開設以来二十余年間、幾十回となく臨席しているが、いまだかつてこのようなことは無かったという。ところが四日後、小田原に帰ろうとする山県は、昨夜より天皇の病が悪化していると知らされる。そしてあの時の眠気は、病気のせいだったと納得をする。十数日後、崩御。入江は「足をそろへて直立し、上体を曲め『何とも申し様の無い事で』と云はれ、眼には涙が一ぱいたまってゐた」という山県を目の当たりする。そして入江もまた「其の沈痛な音声深く私の心に響いて、私は只涙が出た」と言う。

 山県の人材抜擢、育成についても、いくつかの例を使って説明されている。すぐれたリーダーに、親しく仕えることが出来た者は幸せだ。ましてその幸せな記憶が、日本を動かした歴史と大きく重なるとなれば、これを部下として記録しておきたいと願うのは当然だろう。この点、後藤田本・山県本の底辺に流れている著者の熱い思いは、共通する。保身術だけに長け、朝令暮改や責任転換は当り前といった上司が横行する人の世では、いずれも憧れの夢物語だが、それでも忘れてはならないものが、確かにあると思う。