幕末最小の事変を極限まで追究した最大の実録
生野義挙と其同志
 澤 宣一/望月 茂
マツノ書店 復刻版
   2002年刊行 A5判 上製 函入 798頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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生野の変(いくののへん)
 幕末、尊王攘夷派の挙兵事件。但馬地方の豪農、中島太郎兵衛や北垣晋太郎(国道、のち京都府知事)らは農兵組織を進めていたが、文久三(1863)年八月十八日の政変後、京都を逐われた平野国臣らが加わり、天誅組と呼応した討幕挙兵を画策。七卿落ちの公家沢宣嘉を擁立し、長州からの脱藩士河上弥市らも加わった。
 天誅組は壊滅し、挙兵をめぐって対立があったが、十月十二日に生野代官所を占拠した。豪農に率いられて農民二千人が参集。しかし周辺諸藩の兵に包囲され、十月十三日には沢以下幹部の多くが脱走。残留した河上らも農兵から反撃されるなどして壊滅した。その後、農兵は豪農を打ちこわした。(岩波日本史辞典より)


『生野義挙と其同志』 略目次
第1章 序説
第2章 義挙の中心勢力
第3章 農兵組織の運動
第4章 八月十八日の政変
第5章 但馬の農兵召募
第6章 挙兵計書の準備
第7章 顔見世狂言の手筈
第8章 出石の二柱石
第9章 三田尻脱出の澤卿
第10章 総帥澤宣嘉卿
第11章 挙兵論と挙兵中止論
第12章 生野陣屋の占領
第13章 生野本営の破陣
第14章 妙見山下の碧血
第15章 千町峠の澤卿一列
第16章 前木一列の山崎落
第17章 美玉三平及太郎兵衛
第18章 旭建及多田彌太郎
第19章 平野國臣の一列
第20章 川又左一郎の一列
第21章 伊藤龍太郎の事変
第22章 姫路街道の犠牲
第23章 原六郎と太田二郎
第24章 甲子兵燹の餘焔
第25章 生野破陣の直後
第26章 豫州亡命の澤卿
第27章 長州潜居中の澤卿
第28章 但山播水有生色
▼引用書目
▼略年表
▼澤宣嘉卿略年譜
▼付録 @夢のなごり A香川津孝子伝 、B教民の詞 C民の手ぶり


本書、初版刊行時のパンフより
▼今や澤宣一、望月茂両君によりて、本書が刊行せられすでに世間に極めて評判高くして、事実の真相が未詳であった生野銀山における一挙が、分明となったことは、我らにとりて会心事の一つである。
(中略)あるいは義挙有志の武勇伝もあれば、銘銘伝もあり、いわゆる事実は小説よりも奇なりとの場面も、本書を通読すれば一切ならず出会する。我らは実に著者の苦心を諒として、我ら維新回天史の研究者に、好資料を寄与したるを感謝する。(徳富蘇峰)


▼澤・望月両君の共著せる『生野義挙と其同志』は、すこぶる浩翰にしてその搭載するところの材料は、はなはだ多量豊富なり。而して群籍論考の工夫と、遺蹟探詠に尽くせる労力とは決して尋常人の及ぶところにあらず。書中に引証せられたる諸文書には往々珍篇奇什にして、容易に得難き貴重品文少からずとす。これ余の最も感服するところにして、かつその精力の強盛なるに驚愕する所以なり。
 著者は、感心にも当時志士が苦忠の義跡を詳細に探検し、専心奮発、殊に健脚千里を極め、雄筆万紙を費やして、よく深遠の研究を完成し、ついにこの巨冊を刊行せられたり、結局、義挙の本精神を詳しく表顕している。いやしくもこの書を読める江湖の諸君子、必ずや余とその感を同じくするもの多からん。(長州 村田峰次郎)

▼非常時の掛け声に終始した昭和七年悼尾の好出版としての『生野義挙と其同志』は何分八百頁の大著で、大晦日の一日とうとう除夜の鐘を聞くまでつい一気に読過してしまったほどの感興が巻中に横溢している。 (中略)七十年前、桜痴居士の史筆を借りて言えば「生野の義挙は東大和の天誅組のそれとともに、たとえマッチの火にも過ぎなかったほどのものであったとはいえ、やがてその導火線の走るところ倒幕の大火団となって爆発した」のである。 本文二十八章百二十六余節、厖然たる叙事の絶頂は、いうまでもなく澤宣嘉卿を首領とした平野国臣以下の義徒が、文久三年十月、僅々三日間の「生野義挙と其同志」代官所における活劇そのものであるが、しかし、事ここに至るまでの経路および破陣後の推移は、この活劇を如何にも安々と会得せしめるために乱麻の如き朝幕諸藩の関係に運動の舞台となった但馬そのものにおける背景を精叙し、やがてまた、その一党、殊に宣嘉の動静を微細をうがって歴叙している。それには一時の流行である幕末、維新物の講談におけるあまりにも白々しい出鱈目は微塵にも見出されぬ。
 著者の一人、澤宣一氏は宣嘉卿の孫として前後七ヵ年を述作に費やし、播但に三回、作州に一回義徒の跡を尋ね、伊予、長門にも渡って苟も史料と称するものはことごとく掌中にし、維新史料編纂局その他の官署に採訪し「燕居自蔵」の如き遺録を綱本とし、田中光顕伯の精神的指導をも受けられたという。全く、尋常一様の売文業者のよくするところではない。 それは巻末に附載された引用書目を通覧しても如何に博覧傍証の限りを尽されたかが知られる。かくのごとくして私は本書の行文叙事を云々する前にこの熱心なる多くの条件を具備して出現した大冊が、読者を魅了する理由を十分に認めることが出来ようと思う。(朝日新聞 牧野信之助)




史料で築いた紙碑
   一坂 太郎
 昭和七年出版の沢宣一・望月茂共著『生野義挙と其同志』は、八百頁近い大冊である。文久三年(1863)十月、表面上は僅か三日で決着がついた一つの事変にかんし、七十年後、これだけ詳細な記録が編まれた事実に、驚かずにはいられない。これを著者は「殉難志士の為に、豊墳高碑を建つるよりも、更に一層有意義な事である」と述べている。

 まず圧倒させられるのは、七年の歳月を費やし、何度も現地に足を運び収集したという膨大な史資料の数々だ。それは挙兵に参加した者たちの公私にわたる文書であったり、幕府側の記録であったり、関係者の談話であったりする。昭和初期には、まだこれだけの質量とも豊かな幕末史料が残っていたのだ。周知のように生野の挙兵には、七卿のひとり沢宣嘉を擁した奇兵隊総督・河上弥一(南八郎)をはじめ白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之允、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎らが隊を脱し参加した。
 ところが幕命により近隣の出石藩や姫路藩が追討に動くや、挙兵側は農兵二千が離反して内部分裂。追い詰められた河上は「議論より実を行へなまけ武士、国の大事を余所に見る馬鹿 皇国草葬臣南八郎」と高札に記し、他の隊士と共に自決する。

 地元民から人気のあった河上は、死後も「八郎サン」として大切に祭られ、その墓所には参拝者が絶えなかったという逸話も興味をひく。しかも本書はこうした後日談ひとつでも、河上が自決した山口村の役人口上書や、風説集といった当時の史料を引用し、三頁にわたって実証的に、丁寧に解説する。
 生き残り、高杉晋作の紹介で長州集義隊に身を寄せた但馬の農民太田二郎(西村哲二郎)の最後も、印象に残る。太田は河田左久馬に頼み、切腹の作法を習っていた。ところが慶応二年(1866)七月、同志のひとりが隊規を破った責をとり、本当に二十三歳で切腹してしまった。本書では淡々と事件の経緯を史料を並べ追い、ついには郷里に残っていた「彼の最後の手紙」まで見い出し、全文を掲げる。そうして「二郎の志、憐れむべしと難も、長人間に但馬農民の義烈を発揚したる一点に於て、彼の死も亦徒労ではなかつた」と、哀悼の辞をもって、しめくくる。まさに「紙碑」と呼ぶに相応しい史書だ。
 また本書後半を占める、四国を経て長州に潜伏し、維新を迎える沢の逃避行も、他の文献では余り知ることのできない史実である。
 このように本書は長州幕末史を補う、奇兵隊「外伝」としての内容も備える。今回、山口県のマツノ書店から七十年ぶりに復刻される意義も、まずこのあたりにありそうだ。
(本書パンフレットより)