没後十余年、地元の篤学が復元した虚飾なきその原像
西郷隆盛伝 (合本)
 勝田 孫弥
 マツノ書店 復刻版 *原本は明治28年、西郷隆盛傳発行所全5冊
   2009年刊行 A5判 上製函入 566頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『西郷隆盛伝』 略目次
 第一篇 隆盛少壮時代
第1章 隆盛の幼年
第2章 隆盛精神の修養
第3章 齊彬封を継ぐ
第4章 隆盛の抜擢

 第二篇 勤王時代 第一期
第1章 公武一致論
第2章 隆盛薩藩の改革を計らんとす
第3章 齊彬と安部正弘
第4章 幕府継嗣問題及条約調印@
第5章     々      A
第3章 齊彬入京公武の間に尽さんとす
第7章 安政の大獄
第8章 第一の謫居

 第三篇 勤王時代 第二期
第1章 謫居中の事情
第2章 隆盛第一の召還
第3章 隆盛久光の怒に触る
第4章 第二の謫居

 第四篇 勤王時代 第三期
第1章 孤島中天下の事情
第2章 隆盛第二の召還
第3章 長州の京師騒乱
第4章 騒乱後京師の事情
第5章 長州征討

 第五篇 王政維新
第1章 長州再征の儀及外船入摂
第2章 王政復古の決心
第3章 薩藩の改革及五卿事件
第4章 長州再征
第5章 国是論
第6章 王政復古の準備
第7章 王政復古

 第六篇 戊辰の戦乱
第1章 大変革後の事情
第2章 戊辰の破烈
第3章 幕府征討
第4章 徳川処分
第5章 奥羽北越戦争
第6章 箱館戦争

 第七篇 立朝時代
第1章 隆盛在藩中の挙動@
第2章    々    A
第3章 大変革及廃藩置県の準備
第4章 大変革及廃藩置県
第5章 在朝中の事情
第6章 征韓論@
第7章  々 A
第8章 隆盛辞職せし時の事情

 第八篇 退朝時代
第1章 退朝後の形勢
第2章 退朝後隆盛の挙動
第3章 十年戦乱の発端
第4章 十年の戦乱

 結 論


よみがえる西郷伝の原点
   作 家 桐野 作人
 今年は西郷南洲の生誕百八十年であるとともに、城山の露と消えて百三十年にあたる。その節目の年に勝田孫弥著『西郷隆盛伝』が復刻されることは、まことに印象深い。
 西郷隆盛といえば、維新三傑の一人としてあまりにも有名である。西郷について書かれた著作はまさに汗牛充棟の感がある。西郷に関するあらゆる文献を収集した野中敬吾氏の目録(1989年まで)によれば、西郷の伝記・評伝・小説・言行録などは二六四点、遺文・書簡集・遺墨集・画帖が七四点という多数に上っている。これは書籍に限定した専論だけであり、少しでも西郷に触れた書籍や雑誌、戊辰戦争や西南戦争に関するものまで含めると、その数は数え切れないほど膨大だろう。

 明治以来、その数奇な運命もあってか、西郷への国民的関心が高く、各種の西郷文献がおびただしく蓄積されてきたなかで、この西郷伝はまさに本格的伝記の端緒であり、その後の西郷論の方向性を決定づけたものだといってよい。この西郷伝抜きに、西郷を語ることはできないといっても過言ではない。
 著者は鹿児島出身の伝記作家、勝田孫弥(1867〜1941)である。勝田の家は島津家中の門閥家、肝付氏の家来の家柄だった。西郷や大久保のような城下士と異なり、さらに身分が低い私領士(陪臣)だった。勝田は上京して明治法律学校で法律を学び、『帝国議会要論』を著すなど、立憲政治に関心をもっていた。それがなぜか伝記作家に転身することになった。

 勝田といえば、『大久保利通伝』が有名だが、『西郷隆盛伝』はそれに先立つこと十六年前、明治二十七〜八年(1894〜95)の著作である。勝田にとっては、はじめての本格的伝記だった。ときに勝田二十七歳である。
 もっとも、勝田が西郷について書いたのはこれが初めてではなかった。同二十三年、泰東散士という筆名で『西郷月照投海始末』(金港堂刊)という小冊子を著している。
 この小冊子がどのようないきさつで書かれたかわからないが、その執筆過程か刊行後、郷里の先輩たちの知遇を得たのかもしれない。それというのも、勝田が西郷伝執筆の準備に取りかかったのが明治二十三年二月であり、右の小冊子の刊行年と同じだからである。この時期は西郷再評価の画期でもあった。前年二月、大日本帝国憲法の発布に伴う大赦で、西郷は賊名を解かれ、改めて正三位を追贈された。西郷の名誉回復が封印されていた伝記執筆の重要な契機になったのは間違いないだろう。

 さて、勝田が伝記執筆のために史料を収集しはじめたところ、すぐさま困難に逢着した。西郷は書簡などの文書や記録類をほとんど保管していなかったし、日記もつけていなかったからである。「就中、安政・万延の間に於ける隆盛の書翰、記録の如きは之を収集すること尤も困難なりき」と勝田が告白しているように、とくに斉彬時代の西郷の足跡を辿ることは難しかった。

 そこで、勢い大久保利通をはじめとする旧友の文書・記録類を頼ることになった。とくに大久保家には西郷からの多数の書簡が保管されていたばかりか、大久保の詳細な日記も遺っていた。この日記はのちに『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書)として刊行されるが、その一部が最初に活用されたのは『西郷隆盛伝』だったと思われる。勝田も同伝の緒言で、とくに大久保利和(利通長男)・牧野伸顕(利通二男)・吉井友実の三氏の名をあげ、「本伝の成るは偏に右三氏の尽力に依りしものなり」と謝意を表しているほどである。利通がすでに亡いため、存命していた友実の直話が文書や記録に劣らず役立っただろうことは論をまたない。

 勝田は緒言で、西郷の伝記編纂がその死の翌年である明治十一年(1878)に、すでに発案されていたことを明らかにしている。発案者はかつての盟友だった大久保その人である。大久保は郷里の朋輩で修史館の編纂官だった重野安繹に、「西郷の真相を知っている者は自分以外にいない。ただ、自分には国事があって執筆する時間がない。だから、君に頼みたい」と、西郷の伝記編纂を委任した。
 ところが、同年に大久保も紀尾井町で暗殺されたため、西郷の伝記編纂は遷延のやむなきに至っていた。勝田は同伝編纂にあたり、「大久保の遺しし記録に基きて隆盛の伝記を著はし之を発行するに至りしは、大久保の宿志」だと書いて、西郷伝の執筆は大久保の遺志を受け継ぐものだと位置づけていた。

 勝田は叙述するにあたって、その態度を次のように書いている。
「余の本伝を草するや、務めて材料の選択を慎み、叙事評論の大誤謬なからんを期したり。故に孟浪杜撰の少きを信ず」
 史料をできうるかぎり渉猟したばかりか、現存の関係者に直接取材したうえで、より実証を心がけたことがうかがわれる。これはのちの大久保伝と共通する。まさに伝記の王道的な方法論といってよい。

 一例を挙げよう。鳥羽伏見戦争が勃発するに至ったのは、慶応三年(1867)暮れの江戸の薩摩藩邸焼き打ち事件がきっかけだったことはよく知られる。薩邸には浪士たちが結集して関東攪乱工作を進めていた。したがって、江戸藩邸焼き討ちも鳥羽伏見戦争を誘発させるための西郷の挑発の結果だと評されることが多い。しかし、勝田は蓑田伝兵衛宛て西郷書簡を引用して、西郷が江戸の形勢をよくつかめずにおり、江戸藩邸の浪士たちが「決して暴挙いたすつもりとは相見えず」と困惑した様子でいることを示して、西郷謀略説を間接的に否定している。

 また薩長同盟の成立時期についても、慶応二年正月二十一日だとはっきり書いており、その後の通説形成に大きく寄与している。大政奉還についても、薩摩藩にはすでに織り込み済みだったとして、「故に彼の土州の建白を以て青天霹靂の挙の如く論ずるは少しく事実を誤るものにして復古党の間には既に之を協議したるの後なりき」と述べている。大政奉還と王政復古を、あるいは薩土の関係を対立的にとらえていないのは先見の明というべきで、近年の論調に対する痛撃となっている。

 もっとも、大久保家の史料を使いながら、西郷を叙述することの限界もあったのではないかと察せられる。全体構成のうち、明治以降の考証や考察にやや物足りなさを感じるのも、征韓論で二分されてしまった現存する関係者の立場を慮った面もあるのかもしれない。
 しかし、それは時代に制約されたわずかな瑕疵にすぎず、この伝記の価値を損じるものではない。全体を通じて、勝田の叙述は簡にして明、ところどころに所論の要請に応じて一級史料や関係者の証言が的確に引用されており、現代文に親しんでいる私たちにも比較的読みやすい。何より、その内容は一世紀以上経た今日においても、さほど古ぼけていない。西郷伝の古典として、なお参照される必要があるだろう。

 ところで、小生も『西郷隆盛伝』全五冊の古ぼけた分冊綴りをもっている。だいぶ前に古書で購入したものだが、表紙などは今にもくだけそうに脆くなっている。今回は全冊を一巻にまとめた形での復刻だという。これで一層利用しやすくなるのは間違いない。マツノ書店の復刻は個人的にも時宜を得たものだった。
(本書パンフレットより)