史料200点余に『相楽総三関係史料集』を加えた赤報隊研究の必携書
相楽総三・赤報隊史料集
 西澤 朱実・編
  マツノ書店
   2008年刊行 A5判 上製函入 725頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■本書では、先行する『相楽総三関係史料集』『相楽総三とその同志』における史料収集の成果を踏まえ、その補完および赤報隊研究の次の段階への展開に資することを企図し、前掲二書未収録の史料・東山道総督府や諸藩に関する記録等を中心に史料の採録を行った。

■特に初の全文翻刻となる丸山梅夫「日記」「報恩紀行」「相楽総三勤王始末」、権田直助・落合直亮「東行日記」、綾小路俊実「大原重実家記」、諏訪湖博物館蔵「赤報隊人名録」をはじめ、部分翻刻ながら「東山道総督府日記」「東山道総督府諸達留」における関係箇所を一括収録し、赤報隊とそれを取り巻く状況をより立体視できるようにした。また岩倉家文書から岩倉具定・香川敬三・綾小路俊実らと具視の間に交わされた書簡を取り上げたが、ここにはいわゆる「赤報隊謀殺の黒幕」としての岩倉像を覆す片鱗が見られ、年貢半減令の取消時期を示唆する「慶応四年一月二十七日 王政御一新ニ付人民綏撫御沙汰書」等と併せ、従来の研究に一石を投ずるものとなるだろう。「平田延胤日記」「慶応四年二月十七日 白川千代丸より江戸平田家宛書翰」等の平田家資料も、若手平田国学者と赤報隊・薩邸浪士隊との関係を見る上で、確かな指針となるものである。

■このほか、従来断片的な伝聞にとどまっていた塩川広平「関東謀攻日記」、依田鉄之助「道直夜話」、「倉澤清也手記」などを抄録し、「贈位内申書」に見る各人の事蹟・出自や、未詳とされてきた伊牟田尚平・上田修理の最期(「江州長浜今津屋押込一件調書類」)など、近年の情報開示の中で得られた収穫も可能な限り納めた。なお、薩邸浪士隊による甲・相・野挙兵についても主な史料を掲げ、「赤報隊以前」を含めた全体像を、いわゆる「国勤王派」の一つの流れとして捉えられるよう心懸けた。

■先行二書の上梓から半世紀以上を経た今日の情報化社会において、赤報隊研究は事象・人物双方から多種多様なアプローチが可能となったと言ってよい。広範な史料をもとに新たな視点から展開するであろう今後の赤報隊研究に、本書が一助となれば幸いである。
(西澤朱実)


【主な収録史料】 ※抄録を含む
T.人名録類 
赤報隊後嚮導隊惣人員録〔「江濃信日志大略写」〕
赤報隊人名録〔諏訪湖博物館蔵〕
薩邸浪士隊・赤報隊同志姓名〔木村家蔵〕 他

U.記録類 
慶応二〜明治二年平田延胤日記
慶応三年十月〜十二月 淀藩稲葉家薩邸浪士風聞
慶応三年十二月 薩邸浪士相州荻野山中陣屋襲撃につき覚書
慶応三年十二月 八王子宿にて薩邸浪士討取一件
慶応三年十一月 出流山糾合隊檄文
出流山屯集之徒大塚貞作外四拾人御仕置相済候趣申上候書付
慶応四年一月二十七日 王政御一新ニ付人民綏撫御沙汰書
慶応四年一月 嚮導隊高橋下総檄文
慶応四年一月十一日 議定・参与より滋野井公寿・綾小路俊実宛答書
丸山梅夫 日記・報恩紀行・相楽総三勤王始末
江濃信日志大略写
大原重実家記
権田直助・落合直亮 東行日記
塩川広平 関東謀攻日記
依田鉄之助 道直夜話
倉澤清也手記
中津川宿市岡家 御休泊留記
慶応四年二月 嚮導隊桜井常五郎等取調書
慶応四年二月十七日 追分・沓掛・軽井沢三宿惣代より金原忠蔵宛願書
落合宿井口家 赤報隊宿泊留
下諏訪旅館亀屋主人談話筆記
慶応四年二月五日 大島弥太郎年貢半減通達につき回状
追分戦争之次第 〔「戊辰之記」〕
東山道総督府日記
東山道総督府諸達留
塩谷良翰 回顧録
輒誌 柳原前光朝臣戊辰日記
『史談会速記録』(落合直亮・吉仲直吉・山科元行・岡谷繁実 他)
落合直文 しら雪物語 他

V.書翰類 
慶応二年六月 渋谷総司書翰
慶応二年八月 二荒四郎より松尾左次右衛門宛書翰
慶応二年十二月十九日 館川衡平より平田銕胤宛書翰
西山謙之助遺書
慶応三年十二月十日 吉井幸輔より益満休之助・伊牟田尚平宛書翰
慶応四年一月十六日 西郷隆盛より箕田伝兵衛宛書翰
慶応四年一月 相楽総三より松尾左次右衛門宛書翰
慶応四年一月十一日 岩倉具視より綾小路俊実宛書翰
慶応四年一月二十三日 香川敬三より岩倉具視宛書翰
慶応四年一月二十六日 岩倉具定・具経より岩倉具視宛書翰
慶応四年二月九日 綾小路俊実より岩倉具視宛書翰

慶応四年二月 嚮導隊高橋藤三より金原忠蔵宛書翰
慶応四年二月二十六日 相楽総三より探索書
慶応四年二月十七日 白川千代丸より江戸平田家宛書翰
慶応四年三月六日 神道三郎・小山忠太郎より水野丹波宛書翰
明治元年十二月二十一日 伊達轍之助より水野丹波宛書翰 他

W.伝記・個人記録類 
文久三年十月 小島四郎上書
相楽総三辞世写
江州長浜今津屋押込一件調書類(上田修理・伊牟田尚平他)
雲井龍雄一件調書類(伊達轍之助)
大村益次郎暗殺一件調書類(金輪五郎・関島金一郎)
佐藤清臣(神道三郎)小伝・履歴
池田勝馬(黒駒勝蔵)口供
贈位内申書(相楽総三・金原忠蔵・渋谷総司・石城東山・伊牟田尚平・館川衡平・岩波貞長・川北真彦・竹内啓・桜国輔・小川香魚・松田正雄・巣内式部 他)
岩手藩士北村与六郎主従の最期

附 『相楽総三関係史料集』(昭和十四年刊)・補注



  『相楽総三・赤報隊史料集』を推す
    東京大学名誉教授 宮地 正人
 大学の歴史研究者が歴史を解明するのではない。歴史に魂をつかみとられ、その中に人間の息づかいと血潮の躍動を鋭くかぎとった者だけが歴史に正面から立ち向い、その黒々とした闇に光をあてようと試みるのである。
相良総三の孫木村亀太郎が祖父雪冤の一念でなした泣血の辛苦に精神をゆすぶられ、当時の段階で可能な限り広く史料を蒐集し、聞取りに百方手を尽し、あの名著『相良総三とその同志』(1943年刊)を世に問うたのは、史家ではなかった。大衆小説家長谷川伸だったのである。

 鳥羽伏見開戦の時点、全く勝敗の帰趨が予測不可能であった時に発せられた年貢半減令は、本来的には旧幕領・佐幕派勢力所領全域での総反乱蹶起のシグナルだったのであり、この動きに呼応する者の中には当然博徒すらも入ってくるだろう。しかるに二ヶ月もたたない内に、体制変革の先駆集団赤報隊とその指導者相良総三は偽官軍との汚名をかぶせられ処刑されてしまった。

 この体制変革という最大の舞台での相良たちの運命は、単なる個人的悲劇では決してなく、歴史的悲劇として長谷川にしっかりと理解され、それ故に個人史ではなく徹頭徹尾集団論として検討され、日本人に知られていく中で、今日では歴史教科書にまで年貢半減令と赤報隊の史実が記述されるまでになってきている。維新変革と戊辰戦争になんらかの形で発言しようとするものは、この二点に関し自分の意見をもたざるを得なくなったとも表現することが出来るだろう。

 しかしながら、今日では長谷川の見解をその侭祖述することが不可能となってきたのも事実である。彼の仕事に目を開かれ、幕末維新民衆史に志す人々が発掘し紹介する関係諸史料が非常に多く蓄積されてきたからである。現在、それらが博捜され、もう一度確実な史料集が編纂される中で、この大問題を図式的にではなく、実証的に検討しなおす必要が焦眉の課題となってきたのである。

 その課題がここに果たされた。本『相楽総三・赤報隊史料集』によってである。私は編者に最適任者を得たからだと思っている。編者西澤朱実氏は在野の歴史研究者だが、赤報隊への関心は厚く鋭く、都立大学(現・首都大学東京)所蔵水野家文書から一八六三(文久三)年の相良総三対幕府建白書を発掘することによって、早熟な倒幕派相良総三なる既成イメージを一挙に打ち砕き、同時に赤報隊の問題を短絡的に薩邸結集時点から考えるのではなく、少なくとも文久時の幕府奉勅攘夷期からの複雑な党派形成の問題としてきちんと考察すべきことを学界に問うた力量の持ち主でもある。

 西澤氏の長年の目配りと史料蒐集の努力は本書の目次を一覧するだけでも一目瞭然であろう。それは、人名録類、記録類、書翰類、伝記個人記録類の四つに分類されていると同時に、史料蒐集の対象は相良・赤報隊関係は当然のことながら、赤報隊が通過した宿村記録類や新政府、諸藩関係史料へも遺漏なくひろがっており、立体的で公平な検討が十分可能なものとなっている。長谷川段階での「岩倉具視・香川敬三悪人」説は最早通用せず、では新政府の意志決定がどのようなプロセスでおこなわれたのか、といった興味津々たるテーマが、この史料集から逆に頭をのぞかせているのである。他方、農民の変革要求の強さに関しては、なによりもまず桜井常五郎の行動に目を向けなければならないことを、この史料集は示唆している。

 いずれにせよ、幕末維新史に志す人々、年貢半減令と赤報隊の問題を考えざるを得ない人々にとっては、本史料集は必要不可欠のものとなるだろう。『相良総三とその同志』を使用しようとする人々も、今後は本史料集で確実な典拠を確認しなければならなくなった。

 但し私は、もっと広い意味でこの史料集が活用されていくことを期待している。相良や赤報隊など、藩閥にかかわらない所謂草莽の人々は、戦前の公式的な表現では「脱籍浮浪の徒」ときめつけられ、貶められてきた。この藩閥史観なる色眼鏡は依然として今日迄影響しつづけ、更に「尊王」なり「攘夷」なりの言葉だけから明治維新無意味論が結論づけられる。
 しかし人間は利己的な存在であり、今も昔も、やむにやまれぬものを持たない限り行動には移らないし、身を危険には曝さない。この変革期に、なにが相良たち無数の青年をあすこまでつきうごかしたのか、そして彼等の思いと行動が、どのようなものを近代日本に残したのか。その手掛りが本史料集の中に出てくる、ほとんどが人名辞典にも記載のない若者達なのである。彼等を一人でも多く、草むらの中から発掘し、その中でもう一度地域史から全国史を見直していく、その契機に本史料集がなることを私は切に祈念している。
(本書パンフレットより)


  西澤朱実氏の仕事 ―緻密と執念と愛惜と
     作 家 桐野 作人
 当史料集刊行までのいきさつを知る立場から、西澤朱実さんの精魂込めた仕事ぶりの一端を紹介することで、つとめを果たしたい。
 四年ほど前だったか、店主の松村久さんから何か復刻したい古書がないかと尋ねられたとき、即座に『相楽総三関係史料集』(1930年刊)をあげた。この史料集には「赤報記」「薩邸事件畧記」をはじめ、相楽総三や赤報隊を知るうえで欠かせない基本史料が含まれている。しかも、その後、何度か復刻されたにもかかわらず、ほとんど古書市場にも出回っていない稀覯本でもあった。

 ただ、これは戦前の史料集である。戦後の研究の進展を考えると、その復刻だけではもの足りないとも思った。そのとき、私の脳裏に浮かんだのが西澤朱実さんだった。西澤さんは相楽や赤報隊を永年追跡していると仄聞していた。そうした調査から、「小島四郎上書」という相楽が幕閣に提出した建白書を発見し、それをもとに文久年間の相楽の動向について注目すべき論文を発表したことも知っていた。それで、彼女の蒐集した史料を付録という形で取り込んだらどうかと提案したところ、松村さんも賛意を示し、コーディネート役を仰せつかった。私も個人的に相楽総三と赤報隊には関心があっただけに、望むところだった。

 じつは、西澤さんとは面識はあったものの、立ち入った話をしたことがなかった。お会いして話を伺い、驚愕した。西澤さんは十年以上、相楽を追いかけ、じつに膨大な史料を蒐集していたのだ。そのなかには「赤報隊後嚮導隊惣人員録」「大原重実家記」、赤報隊士だった丸山梅夫の「日記」「報恩紀行」「相楽総三勤王始末」、年貢半減令に関わる岩倉具視や香川敬三書簡など、未翻刻の貴重な史料も含まれていた。
 それらの史料の束を積み重ねると、高さ一メートル近くにもなった。私は相楽総三や赤報隊関係の史料がそんなにたくさん遺っているとは、恥ずかしながら知らなかった。とにかく、その質量に圧倒されたのである。

 私は迷わず方針転換することにした。西澤さんが精魂込めて蒐集した史料を中心にした新たな史料集として刊行すべきだと考え直し、松村さんと西澤さんの了承を取り付けた。
 それから、苦難の日々が始まった。まず西澤さんの緻密な作業ぶりに驚かされた。詳細な史料目録を作成してあったばかりか、カテゴリー別に分類された史料のファイルなどがどんと送られてきた。そのなかで、私をとくに瞠目させたのは、西澤さんが私家版で編纂した「赤報隊・薩邸浪士隊 関係人名録」だった。これはまだ編纂途中とのことだったが、赤報隊とその前身である薩邸浪士隊に関わる四百人以上の個人データや年月日ごとの行動記録が出典を明示して、びっしりと記載されていた。赤報隊関係者はむろん、岩倉具視・綾小路俊実・滋野井公寿・高松実村などの公家、西郷隆盛・伊牟田尚平・香川敬三といった志士層から、茂平太・平八・柾吉といった名もない百姓まで立項してあった。

 赤報隊関係者のほとんどは変名を使っていて、なかには五つくらい使い分けている者もいる。西澤さんはそれらもすべて把握していた。要するに、千人分以上に匹敵するデータなのである。編纂作業中、私がある未知の変名にぶつかり問い質すと、西澤さんは即座に実名を教えてくれ、ほかにも某、某といった変名を使っていると付け加えてくれる。

 私は目が回る思いがした。同時に、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったと、半ば後悔したほどである。
 それでも、西澤さんはまだ史料の採録が足りないといい、さらに調査を継続した。私が同行したところだけでも、佐倉の国立歴史民俗博物館、世田谷区郷土資料館、学習院大学史料館、国会図書館憲政資料室、伊那小野宿の倉澤家などがあり、史料閲覧や写真撮影・複写などを行った。そうして蒐集した地方文書の難解なくずし字の解読に二人して頭を抱えたこともあった。

 かくして、西澤さんが十年以上を費やした仕事がようやく刊行まで漕ぎつけた。近くで手伝った者としてこんなに喜ばしいことはない。そこまで西澤さんを突き動かした原動力は、やはり相楽や赤報隊への愛惜の念だと思う。それと同時に、今回収録できた史料は西澤さんが蒐集した史料の一部でしかなく、多くは断腸の思いで割愛してあることも、私は知っている。それだけに、西澤さんにはこれらの膨大な史料の海を自由自在に泳ぎ回って、新たな著作を紡ぎ出してほしいと念じている。
(本書パンフレットより)