徳川の時代への挽歌!
彰義隊戦史 附・『幕末血涙史』より「彰義隊顛末」「天野八郎小伝」
 山崎 有信
 マツノ書店 復刻版 ※原本は明治43年 隆文館
   2008年刊行 A5判 上製函入 988頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■本書は著者の山崎有信が、生き残った彰義隊戦士に直接面会するなどしてこの戦闘を徹底的に調査検証し、その詳細な内容を「経緯」「挿話」「史料」「伝記」の四項目に分けてまとめた、唯一の彰義隊史料集です。
■復刻に際し、同じ著者が本書刊行の十八年後に発表した『幕末血涙史』(日本書院刊)より「彰義隊小史」「天野八郎小伝」「山王台彰義隊戦死者墳墓の由来」の計140頁を巻末に収録致します。新史料満載です。今では珍しい総ルビ本なので「昔の本は苦手」というお方は、ぜひ巻末からお読み下さい。

『彰義隊戦史』 略目次
※ 各項目に多くの親切な小見出しあり。目次だけで16頁あります。

1 彰義隊の戦闘の顛末
 慶喜公の大政奉還 慶喜公の下阪並に伏見鳥羽の戦争
 王師の東征
 慶喜公の恭順
 輪王寺宮公現法親王の西下
 松平上総介江戸出発
 江戸城の明渡
 勝安房守の危難
 彰義隊浅草本願寺の会合 彰義隊の上野へ屯集
 渋沢成一郎の脱隊
 彰義隊の組織
 大村益次郎の東下
 彰義隊の内訌 彰義隊解散の使者
 丸毛靱負彰義隊加入
 彰義隊頭取本多敏三郎の苦心 彰義隊攻撃の軍議
 北陸鎮撫総督の参謀津田山三郎東叡山を囲む
 彰義隊討伐の部署
 上野東叡山の地勢並に堂塔伽藍
 戦闘開始
 黒門口並に穴稲荷門等の戦
 東叡山戦闘余聞
 天野八郎及び丸毛靱負等西城攻撃を計る
 彰義隊残兵の追縛
 上野戦争に於ける状況並に官軍の死傷者届
 輪王寺宮東叡山御退去
 箕輪円通寺並に山王台彰義隊戦死者墳墓の由来

2 譚叢
 「近藤勇、慶喜公に従ひ上野に至る」ほか、著者が集めた約七十の関連エピソード集。

3 彰義隊戦闘史料
 奥野昌綱の略歴
 輪王寺宮と有栖川宮と応対の記
 関口隆吉の酒間雑話
 天野八郎の略歴 天野八郎斃休録 天野八郎碑
 本多晋の略歴 本多晋の喘余吟録
 良馬之碑
 小川興卿の略歴 小川興卿の彰義隊の演劇に対する批評
 丸毛利恒の彰義隊戦争実歴抄
 須永伝蔵彰義隊に関する経歴
 阿部弘蔵の千住口先鋒隊の探偵 阿部弘蔵の上野奮戦の実況
 寺沢正明の略歴 寺沢正明の一生一話
 尾高惇忠の哀訴回瀾実録
 伴士徳君墓表
 佐野豊三郎碑陰記
 佛磨大和尚之墓
 糸賀君之墓誌
 三幸翁之碑
 上野黒門の記
 上野清水堂彰義隊の額
 渡辺清の彰義隊に関する実歴
 小野保の彰義隊に関する実歴
 太田広正の彰義隊に関する実歴
 野見錠次郎手記旗錦物語中彰義隊墓地に関する一項
 彰義隊詩文和歌
 清水谷慶順の東叡山勝志
 成臨丸撃払の顛末
 竜虎隊の顛末
 丸毛利恒の碑文
 須永伝蔵の碑文
 北白川宮能久親王伝
 覚王院義観伝
 竹林坊光映伝
 竜王院尭忍伝
 鈴木安芸守時信伝
 天野八郎伝
 三河幸三郎伝
 相良長発伝

 付録
 彰義隊事跡取調報告演説
 戦史に関する寄書

幕末の華・彰義隊
  作家・地域史研究者 森まゆみ
 『彰義隊戦史』(明治三十七年・東京隆文館)は788頁に及ぶ、山崎有信畢生の大作である。上野の彰義隊についてこれほど広く調べ、多くを聴いて書かれた本はない。もはや戊辰戦争後一四〇年を経て、実戦に参加した隊士はすべて土の中にあり、負けた側であって公文書が残っていない以上、彰義隊そのものについては、この本を越える著作は今後、現れないであろう。

 山崎有信については知られていないが、号紫水、九州豊前の生まれ、明治三十年ごろ、内務省社寺局に勤めた。一時岩手に赴任したが、あまり寒冷の地なので東京に戻り、神田松田町に下宿して試験を受けようと考えた。勉強のため上野の図書館に通うたび、彰義隊墓所の前を通り、上野戦争に興味を持ち、他のことを捨て、調べ始めた。
 上野戦争とは何か。徳川将軍家の墓所があり、十五代将軍慶喜も一時は謹慎していた上野寛永寺のある山から不忍池へかけて、谷中、日暮里、根津までが戦場である。慶応四(1868)年五月十五日、ここに立て籠もる彰義隊をはじめとする幕府恩顧の者たちと、長州の大村益次郎が戦略を練り薩摩の西郷隆盛が指揮をとる新政府軍、いわゆる「官」軍が戦った。

 旧暦のことで、五月十五日といってもいまでいうと七月上旬、梅雨の中、一万を超える新政府軍は、上野へ向う。大手の黒門口のほか、不忍池を渡って穴稲荷門へ、藪下道から団子坂を経て、谷中門へと、主に三つに分かれて攻めた。一方、山にいた彰義隊は勝安房日記によると四千であるが、これは少し水増しで、臆病風に吹かれたりして山を下りた者も多く、阿部杖策によれば参加者は千ちょっとのようである。
 午前中は谷中門で彰義隊が善戦したが、午後、黒門口が破られ、半日にして戦いの結着はついた。新政府側の資料は残っており、各藩ごとの死者も報告され、彼等の遺体はさっそく片付けられている。勝者には豚肉や酒などの褒賞も出された。しかし、敗者である彰義隊は、遺体の取り片付けも許されず、その数も明らかではない。

 私は四半世紀前、地域雑誌の「谷中・根津・千駄木」を創刊し、この彰義隊について地元に伝わる風説を掘り起こし『彰義隊遺聞』(現在新潮文庫)を書いたが、四半世紀調べても調べ尽くすことはできなかった。
 ▼彰義隊は果たしてどれほどの数であったか。 
 ▼上野戦争でいったい何人死んだのか。
 ▼どのようないで立ち、どのような武器を持っていたのか。
 ▼敗れた主要な原因は何か。
 ▼屯営中はどのような生活をしていたのか。
 ▼どのような指揮命令系統があったのか。
 ▼落ちのびた隊士はその後どうしたのか。
 ▼函館まで行った百名を越える隊士の北へのルートは。 
 ▼輪王寺宮はなぜ山を降りなかったのか。
 明確には分からないことばかりである。 

 それは敗軍の常として、資料が残らず、生き延びた者も口を閉ざし、名を変えて明治の世をからくも渡ったからでもある。
 新政府の側も言論統制を敷き、明治七年までは報道を許さず、追悼の墓も建てられなかった。しかし人の口に戸は立てられず、民衆の間にはさまざまな彰義隊伝説≠ェ広まった。私はそのような落ち穂拾いを一九八〇年代に始めたのであるが、うらやましいことに山崎有信が「歴史を煙滅させてはならない」と発起した明治三十年ごろには、まだ彰義隊の生き残りがいた。ことに、最初の檄文を書いた本多晋(旧名敏三郎)は上野東照宮の宮司となって、同志の霊を弔っていた。彼に「彰義会」の名簿をもらい、隊士を位階の高い者から順にたずねてインタビューしたという。墓所を営む元彰義隊士小川興郷(椙太)も協力した。

 彰義隊は慶応四年二月十三日、雑司ヶ谷鬼子母神に、本多敏三郎、伴門五郎、須永於莵之輔ら一橋藩家臣が集り、朝敵となった旧主徳川慶喜の助命嘆願を主旨として結成された。東本願寺から上野へ移り、謹慎中の慶喜を守護し、彼が水戸に退隠してからは上野寛永寺徳川代々の霊廟と、住職である輪王寺宮を守護することを目的として、数が増えていった。松平確堂が彼らに江戸市中見廻りを申し付けてから、幕末動乱の百鬼夜行におののく市民は彰義隊を徳とし、情人に持つなら彰義隊≠ニまでいわれた。
 旗本の御曹子で、品も良く美しい若者が多かったからというが、一方、進駐してきた薩長の侍は色街でもちっともモテなかったと伝わる。それが江戸の女の意地であり、私が子どものころまで江戸はお萩とお芋にやられた≠ニ慨嘆する老人がいた。(これは負けた側のうっぷん晴らしでもあるからご寛恕願いたい)

 しかし、たった百日が命の彰義隊にも内輪もめがあり、頭取(隊長)に推された一橋藩奥右筆格の渋沢成一郎は、主戦派の天野八郎と競りあい、山を降りている。渋沢の趣旨があくまで旧主慶喜の助命にあったなら、上州甘楽郡の郷士、天野は徳川家と幕藩体制の再興、巻き返しを考えていた。
 上野の山に参ずる者は日を追うて多くなり、一時は三千名ほどにふくれ上ったらしいが、その中には幕臣(旗本、御家人)のほか、一旗上げたい者、瓦解に殉ずる者、家の存続を願う者、各藩の脱藩者、さらに鳶の者、彰義隊に仕立てられた町人、そしてスパイまでがいたという。

 前哨戦が何度かあり、江戸無血開城を手際よくすませた勝海舟はこれを危険視して、山岡鉄舟を使者として何度か解散を命じるが、彰義隊は意地でも動かなかった。ついに五月十五日、決戦の火蓋は切って落とされる。市中取締りを仰せつけられとはいえ、彰義隊は正規の幕軍ではなかったが、(正規の陸軍は北関東に、海軍は榎本武揚が率いて品川沖にあった)西郷も大村もこれとは闘わず、上野の山の彰義隊をあたかも正規の幕軍であるかの如く、大兵を用いて攻めた。
 要するに、江戸市民の眼前でもう徳川の世は終わったのだ≠ニいう実物教育をしてみせたのだった。
 だからこそ、大村は「窮鼠猫を噛む」ようなことがあっては、自軍の損害も大きいと踏んで、山の北方、根岸を退き口としてあけておいたのであろう。また、両軍とも、前日に市中にお触れを出し、町人に避難するよう勧告している。これは武士同志の意地をかけた限定戦であって、勝敗ははじめから明らかであったろう。

 渋沢は武州深谷の農民出身で、天野も上州甘楽の農民だから、彰義隊とはレッキとした幕臣などいない烏合の衆だ。という説(多分に新政府側の宣伝)もある。しかし本書をよんでいただければ明らかなように、鳥羽、伏見の敗軍の将竹中丹後守忠堅、大久保紀伊守、春日左衛門といった大身の旗本も加わっている。
 まことに上野戦争は幕府の本拠地江戸で、一つの時代の終わりを見せたデモンストレーションで、「戊辰戦争中最も重要な闘い」(原口清氏)であった。「彼らは自らが敗れ去る姿によって、江戸という町の本質を官軍に示した」(鈴木博之氏)のである。

 しかし隊士たちはかわいそうだった。幕軍でもないのに征討され、捜索され、処刑された。函館まで行って戦死した者も多い。生き延びた者は我々は幕臣であるとして静岡へ赴き、徳川家を継いだ家達に「志願の表」を出したが冷遇された。山崎有信氏はこれを悼み、彼らを「幕末の花」と評価している。決して徒花ではない、生き延びた者のうちには渋沢成一郎は生糸商に、尾高新五郎は富岡製糸場長に、須永於莵之輔は箱根町長に、丸毛靱負はジャーナリストに、戸川残花は牧師に、佐久間貞一は印刷業者に、曾禰達蔵は建築家になった。みな、薩長藩閥政治家とは異なるしかたで、明治の時代をつくったといえよう。
 このたび、藩でいえば長州にある徳山マツノ書店が、『彰義隊戦史』の復刻をしてくださることとなった。お江戸の出版社がこの名著の復刻に取り組まなかったことを恥じると共に、維新史史料という紙碑を大切に思い、世話し、磨いていこうとする店主松村久氏はじめ書店の皆様に心からの感謝を捧げる。記憶を風化させず、記録にすること、それが著者山崎有信の執念であったと思う。山崎氏も後世に良き盟友を得たというべきであろうか。
(本書パンフレットより)