メッケルなくして「児玉」「好古」なし ドイツ名参謀が開く日本陸軍の草分け!
日本陸軍史研究 メッケル少佐
 附:「メッケル少佐の思出」(大井成元)「西洋戦術沿革略史」(メッケル)
 宿利 重一
 マツノ書店 復刻版
   2010年刊行 A5判 上製函入 503頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■著者の宿利重一は大分県生まれ。中学生のとき暴発事故のため両手の指を失い、両手首をハンカチでくるみ、ペンをはさんで筆記していたようです。苦学しながら才能を認められ「必ず生前に深い関係のあった人を訪問し取材する」という鉄則を貫いた人物誌は『児玉源太郎』『乃木希典』(以上マツノ書店 復刻)『乃木静子』など紙価の高いものばかりです。

■静子夫人の長姉の邸に久しく寄寓していたという最高の条件にもかかわらず『乃木静子』は初版、再販を経て二十四年後の昭和十二年、増補版を出しており、『児玉源太郎』は紙不足、技術者不足などで本作りが最も困難だった昭和十八年の「改訂三版」にして、ようやく納得という「一意専心」の人でもあります。
■自著のみによる新企画「日本陸軍史研究」は敗戦のため、本書だけに終わりました。本書は史料価値もさることながら、随想風で読みやすい章も多く、明治初期の日本を西洋人の目で見る楽しみもあります。

『メッケル少佐』 略目次
■モルトケの微笑
機智に椰捻をも
モーゼル・ワイン
フランスの抗議
日露ノ役以後も
運命の奇のみか

■その靴痕-伝記考
ケルンを故郷に
大学時代の当化
鐵十字二等勲章
児玉大佐と共に
日本人メッケル

■陸軍大学校へ
敗残のフランス
ビスマルクの誤算
この事実ありき
陸軍大学校設置
メッケルを招く
教導も徹底的に
近代用兵の会得
勝利・創意を生む

■臨時陸軍制度審査委員
自然的の成長へ
その頃の将兵は
サアベルの文官
月曜会なるもの
川上と児玉あり
不如人和の極か
如何に憲査せる

■日本的成長
この気魂を見よ
小川又次を思ふ
頭脳か抱擁力か
メッケルの告別
異色の独断専行
楡らざりし精錬
陸軍刑法を読む

■健兵養うべし
モルトケの衣鉢
新帝と其の寵臣
質実剛健に生く
群中に抽出して
両者深く理解す
その著想を語る
何故に罷めしか
大村益次郎先生
錬成と幼年学校
普魯西は変貌す
武人の無邪気さ
勝たざりし所以
要塞戦を閑却す
精神力の問題へ
風紀頽廃を如何

■人名索引(抄)

■巻末付録
メッケル将軍の思出(大井成元口述)
西洋戦術沿革略史(メッケル参謀少佐口述)
「軍事史研究」(第四巻第一号(1939年)、同第二号、軍事史学会発行)



 『日本陸軍史研究メッケル少佐』の復刻を慶ぶ        
   軍事史学会副会長 原 剛
 日本陸軍は約八十年の歴史において、多くの外国人を招いて西欧の軍事制度・戦術・技術などを学んだが、その中でメッケルほど影響力を与えた者はいない。メッケルは、日本陸軍が創設当初の国内治安重視期から、対外戦に備えた国土防衛重視に転換する時期に、陸軍大学校教官として招聘され、戦術教育はもちろん軍事制度の改革に多大の尽力をし、日本陸軍の基礎造りに貢献した人物である。
 かつて三十数年前、私が明治陸軍史を研究するに際し、是非とも手元に置き参考にしたいと思い、神田の古書店を廻ってやっと探し求めた本が、この『日本陸軍史研究メッケル少佐』であった。本書は戦争中の昭和十九年に宿利重一が出版したもので、現在では古書店でも入手困難な状況にある中、山口県周南市のマツノ書店から復刻されることは、誠に慶ばしいことである。

 メッケルは明治十八年三月、いわゆる御雇外国人として来日し、新設されたばかりの陸軍大学校において満三年間ドイツ兵学(戦術)を教授し、これまでのフランス式の論理的・数理的な講義的方式の戦術教育を、ドイツ式の実際的・応用的な実践的方式の教育に転換して、中堅将校の部隊運用能力を飛躍的に向上させた。メッケルは陸軍大学校における戦術教育だけでなく、日本陸軍の軍制改革にも大きく貢献した。すなわち鎮台制から近代的機動的な師団制への改編、教育を統轄する監軍部の設置、戦時に必要な予備後備将校養成制度の確立、士官学校入校前と卒業後の隊付勤務を重視した士官候補生制度の採用など、国防軍としての基礎造りに貢献したのであった。メッケルのこのような軍制改革意見を実質的に推進したのが、桂太郎・川上操六・児玉源太郎などであった。

 このようにメッケルは、日本陸軍に多大の貢献をしたにもかかわらず、メッケルに関する研究は少ない。メッケルについて最初に書かれたのは、今回の復刻で巻末に載せられた大井成元の「メッケルの思出」である。その後、小山弘健『近代日本軍事史概説』(昭和十九年)、松下芳男『明治軍制史論』(昭和三十一年)、三宅正樹「メッケルにおける一九世紀ドイツと明治前期日本との接触」(『人文研究所報』第六号、神奈川大学)、林三郎『参謀教育〜メッケルと日本陸軍』(芙蓉書房)などが、来日中のメッケルの活動について書いている。来日前および帰国後については、中村赳「メッケル少佐新考」(『軍事史学』第一○巻第四号)がある。

 メッケルについて総合的に述べた日本語の伝記は、本書が最初であり、その後も出ていない。それだけに本書はメッケル研究の貴重な文献であると言える。後にドイツ人ケルストにより「ヤーコブ・メッケル」という伝記(吉田再造訳が防衛大学『走水評論』二一号に掲載)が刊行されたが、日本におけるメッケルの活動・貢献について、日本側の多くの史料と関係者の聞き取りを基礎にして明治軍事史上に正当に位置付けし、かつ彼の生涯についても概括的に述べている点、今回復刻される本書の方が優れている。

 本書は、六章からなり、各章がやや独立的に書かれていて、どの章から読み始めてもいいようになっている。一章「モルトケの微笑」には、陸軍大学校の教官としてメッケルが選ばれた経緯が、二章「その靴痕〜伝記考」には、メッケルの来日する前と帰国後の略伝および没後に日本の有志により追悼会が行われ胸像が陸大構内に建設された経緯が、三章「陸軍大学校へ」には、日本陸軍がフランス式からドイツ式に転換した経緯とメッケルの陸大における教育概要が、四章「臨時陸軍制度審査委員」には、メッケルの軍制改革意見がこの審査委員によって審議され桂太郎次官・川上操六参謀本部次長(後近衛歩兵第二旅団長)・児玉源太郎参謀本部第一局長(後監軍部参謀長)などによって推進された経緯が、五章「日本的成長」には、メッケルの教育を受けた者の成長過程が、六章「健兵を養ふべし」には、その後のドイツ・フランス・日本の状況が述べられ、結論として健兵の必要性を強調している。

 本書は、昭和一九年という時期に書かれ、やや当時の情勢に影響されている面もあるが、メッケルを中心に明治期の陸軍史を客観的に論じたものとして、陸軍史研究の貴重な文献であると言えよう。入手困難な現状において、本書が復刻されることは大変意義深く慶ばしいことである。
(本書パンフレットより)


  メッケル研究の決定版
    戦史研究家 長南 政義
 「予をしてドイツ師団を率い来らしめば、日本軍の如きは縦横に撃破し得べし」
 これが、明治十八年に陸軍大学校に着任したメッケルが発した第一声であった。それから約十九年後に開戦した日露戦役に際して、メッケルは、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と日本陸軍の勝利を断言したといわれる。三年間という短い日本滞在期間に、メッケルは何を成し遂げたのであろうか。

 プロシア流の大日本帝国憲法と同様に、帝国陸軍もプロシア陸軍をモデルにした軍隊であるというのが一般的理解であろう。そして、帝国陸軍におけるプロシア的軍制確立に大きく貢献したのが、宿利重一『メッケル少佐』の主人公クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコブ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年〜1906年)である。

 実は、メッケル着任前の帝国陸軍は、幕府陸軍と同様にフランス式軍制を範としていた。帝国陸軍が明治三年から明治二十二年までに雇用したフランス軍人が五十四人に上ったという点や、初期の幼年学校の教官がすべてフランス人で、練兵場での号令や、数学の九九に至るまですべてフランス語で行われたという事実が、維新直後の帝国陸軍のフランス的性格を雄弁に物語っている。

 このフランス式に異を唱えたのが、桂太郎であった。明治三年、桂は、賞典禄を元手にプロシアへ私費留学をした。帰国後、木戸孝允が山県有朋に依頼した結果、陸軍大尉として陸軍に入った桂は、ドイツ公使館附武官を経て、普仏戦争で勝利したプロシア式軍制を採用すべきだと考えるようになり、同じ長州藩出身の陸軍の権力者山県に働きかけた。明治十六年、大山巌陸軍卿を団長とする欧州兵制視察団が一年の旅程で欧州へ派遣され、桂太郎は川上操六と共に随員に選ばれた。大山の意図は、桂は軍制を、川上操六は軍令を研究させるというものであった。そして、視察途中に、プロシア式兵制を採用すべきであると考えた桂が川上と共に、フランス派であった大山を説得し、その同意を取り付けた。その結果、陸軍士官学校の教官はフランス軍人、陸軍大学校の教官はプロシア軍人ということになり、プロシアの参謀総長モルトケの推薦により、明治十八年三月、メッケルが来日した。

 着任当時のメッケルの年俸は五千四百円。当時の日本陸軍大将が六千円だったというから、明治陸軍がメッケルにかけた期待のほどが伺えよう。
 メッケルは、陸軍大学校での教育にとどまらず、当時の陸軍首脳が推進していた軍制改革にも意見を述べ、軍制の基礎はフランス式からプロイセン式に変わり、士官学校教育もドイツ式となった。

 メッケルの薫陶を受けたのは、陸軍大学校の第一期生から第三期生までであったが、児玉源太郎などの高級軍人も講義を聴講した。メッケルの指導を受けた学生には、日露戦争で満洲軍総司令部の作戦担当参謀・松川敏胤や、兵站担当参謀・井口省吾等がいる。まさに、日露戦争が、「メッケル戦術の直訳的なもの」と評される所以である。そして、メッケルが日本政府より勲一等瑞宝章を贈られ、陸軍大学校構内に、彼の胸像が建てられたことは、日本側のメッケルへの評価の高さを示すものであろう。

 本書は、「日本陸軍史研究」(全五巻)のうちの第二巻として執筆されたものであるが、大東亜戦争終戦に伴い、陸軍も解体したためか、結局、『メッケル少佐』一冊のみしか刊行されずに終わった。
 著者の宿利重一は、『乃木希典』、『乃木静子』、『旅順戦と乃木将軍』といった乃木の研究書や、『児玉源太郎』、『小村寿太郎 北京篇』といった伝記の執筆者として知られている。宿利は、本書執筆のために、資料を陸軍省、参謀本部、陸軍大学校に求め、メッケル門下生である、陸軍中将・藤井茂太、陸軍大将・内山小二郎、陸軍大将・大井成元にも取材を行っている。戦中に執筆された本書が、現在もメッケル研究の基本書たる位置を失わない理由は、そうした点にあるのだろう。

 巷間によく知られるエピソードに満ちたメッケルであるが、その伝記は意外と少ない。戦前に刊行されたものは、今回マツノ書店が復刻する、宿利重一『日本陸軍史研究 メッケル少佐』(日本軍用図書、一九四四年)と大井成元口述『メッケル将軍の思出 附西洋戦術沿革略史』(軍事史学会、一九三九年)の二冊のみであり、戦後に書かれたメッケルの評伝、林三郎『参謀教育 メッケルと日本陸軍』(芙蓉書房)は、前二者に依拠して書かれたものである。そして、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋)に登場するメッケルのエピソードの多くが、『メッケル少佐』に負うところが大であることは今回復刻される本書を読めば明瞭であるだろう。

 邦語で書かれたメッケル研究の白眉とされる本書は、多くの研究者や読書家が渇望する一冊であるものの、現在では入手困難であり、運良く古書店で手に取ることができても二万五千円前後と高価な上に、昭和十九年という大戦中の資源不足により紙質が最も悪い時期に刊行された本であるため、長期の使用に耐え得ない本が多い。この点に鑑みると、マツノ書店が、本書を復刻する価値は大いにあるといえる。

 本書の著者は、過去にマツノ書店により復刻された『児玉源太郎』や『乃木希典』の筆者として名高い宿利重一である。宿利の文章は、多くの史料から博引旁証をすることで実証性を確保する一方で、平易かつ躍動感あふれる文章で読者の心をつかんで離さないところに大きな特徴がある。今回の復刻を縁由として、是非、本書を御一読なされることをお勧めしたい。
(本書パンフレットより)