秘蔵の「遺影残墨」が伝える名将・児玉源太郎の素顔
藤園記念画帖 (児玉源太郎十三回忌記念)
 児玉家私家版
 マツノ書店 復刻版
   2010年刊行 A4横判 上製函入 194頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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  児玉源太郎の実像に会う
       作 家 古川 薫
 日露戦争に従軍した将軍のなかで、わたくしが最も敬愛しているのは、児玉源太郎である。いっぽうで乃木将軍も好きだ。ある作家による誹謗中傷で毀誉褒貶にまみれたとはいえ、乃木は世界的な知名度において、やはり一頭地を抜いている。その武士道的ノーブレス・オブリージは、国籍や時代を超え二十世紀の伝説ともなっている。日本国内には乃木希典を祀る神社八社がある。私的な祠をあわせれば、無数といってよいほどで、なお多くの信者を集めている。軍神乃木の位置は不動のものである。

 それにくらべて、児玉源太郎の名を知る者は、日露戦争を記憶にとどめる高齢者、出生地の地元民および近現代史に関心を寄せるわずかな知識人であり、若い世代にいたってはほとんど無名の存在にひとしい。それでもわたくしは、児玉源太郎を敬愛してやまないのだ。異能にめぐまれて幾多の功績をたてながら、この人は黒子のような生涯を遂げた。児玉源太郎の右に出る清廉剛毅かつ無欲な将軍はいないのである。乃木がよく武士に譬えられるが、児玉もまた毛利元就につかえた勇猛な武州児玉党の流れをくむ野武士にほかならなかった。今なぜ児玉源太郎かと問われれば、人間性喪失のプラグマティズム謳歌の現代においてこそと言わなければなるまい。

 いったいに日本人の現代史認識は、大雑把にいって総理大臣を目安にしており、政界の頂点に立った人物のみを崇める傾向は、わたくしが生まれ育った山口県においていちじるしい。初代内閣総理大臣伊藤博文以後幾人の首相を輩出したということが最大関心事であり、したがって総理大臣になれなかった児玉源太郎の名も、やがて薄れていくのだ。こうした傾向はひとり山口県にかぎるまい。児玉源太郎が宰相となる機会を得ていたら、その軍歴とともに日本近現代史の主要人物として名をとどめたのではないかと、そんな仮定もせんないことだが、常々わたくしは考えるのだ。

 児玉は陸相、内相、文相を歴任、早々と辞任した乃木の後任として台湾総督もつとめ、めざましい実績をみせている。日本最高の戦術家との折り紙を、ドイツ参謀本部の俊秀メッケルから授けられ、日露戦争での功績をうたわれる。行政官としても非凡な才能を認められながら、ついに宰相の座にたどりつけなかった。わたくしはそのことを『天辺の椅子―日露戦争と児玉源太郎』にくどいほど書いた。つまり源太郎は、最高に有能なナンバー2としての一生を終わったのだが、要するにそれは、明治維新に関わる第三世代という生まれ合わせの不運であった。軍人としても山県有朋、大山巌をはじめとする古手の人材が、源太郎の頭の上をいつまでも塞いでいたのだ。そして最大の不運は、日露戦争終結の直後、急死といってよい状況で命が燃えつきたことである。五十五歳とは、まったく意外の早世だった。

 源太郎の死は終戦翌年の明治三十九年(1906)七月二十三日だが、その二カ月前の五月二十二日、首相官邸で重要な会議がひらかれている。「満州問題協議会」というのであった。この会議は戦後の満州をめぐる微妙な問題を協議したのだが、実質的には児玉参謀総長のつるし上げに終始した。要するに軍政署を廃止して、陸軍は満州から手を引けというのだった。日露戦争終結直後、アメリカの鉄道王ハリマンが満州の東清鉄道の買収に乗り出し、日本政府内でもそれに応じようとする気配があった。反対論が声をあげ、ハリマンとの予備協約は破棄されたが、満州の市場開拓に乗り出そうとする米英の露骨な動きをみて、軍政署による牽制を強めようとする源太郎への批判が高まっていた。

 日露戦争で日本に肩入れした米英からは、軍政が解かれず自由に満州市場に手出しできないことへの不満を、彼らは日本政府にたいして鳴らしはじめる。満州の軍政をやめて外国との摩擦をやわらげるべきだというのが日本政府大方の意見だが、源太郎はなお軍政の手綱をゆるめるべきではないと抵抗した。
 しかしこの日の会議は多数意見に押し切られ、「軍政署は順次廃止し、満州の諸機関を平時に組織する」という結論を出しておわった。源太郎は大いに不満だった。このまま列強に満州を開放すれば、ふたたび分割競争の場となり中国全土が東洋の蜜≠ノされかねないという危機感を、源太郎は抱いていたのだ。

 七月十三日、つまり死ぬ十日前、源太郎は南満州鉄道設立委員長を任命されが、そのときすでに源太郎には一言の相談もなく南満州鉄道総裁が後藤新平に決定していた。源太郎が猛烈な不満をとなえたことは想像にかたくないが、まるでどさくさに紛れるように、源太郎は急死し、その間の事情は曖昧に消し去られてしまっている。 急死する前日、軽い頭痛を訴えている源太郎の前にあらわれたのが、後藤新平である。児玉家の記録では、彼のほうから訪問してきたことになっているが、後藤は「児玉に招かれた」とし、総裁就任を辞退する旨を述べに行ったのだが、是非にと児玉から説得されたとあとで語っている。

 後藤と児玉源太郎とのそのときのやりとりは、立ち会った人の証言がないので不明のままだ。後藤は源太郎の死を悼み「弔い合戦のつもりで、断然総裁の座を引き受けた」という意味のことを言っている。
 日露戦後の満州問題にかかわる最も重大な局面が展開される矢先、キーマンであり、一部の人間にとっては最も目障りな存在の源太郎の急死に、疑いをさしはさまないのを不自然としなければならない。医師の診断を経ず孤独死した者の遺体は、現代では司法解剖がなされるはずだが、それもなかったので、確たる死因も不明なのだ。児玉源太郎の死については、あらためて検証の必要があるというのが、かねてからのわたくしの所論で、それについては前掲拙著でもすこし触れているので、このたびの『藤園記念画帖』の付録にある黒田甲子郎による「藤園小伝」に期待をかけたが、略伝であり終焉の記述は宿利重一の伝記と大差がなく、それも不自然に説明が簡略化されている。このことに関して、わたくしは本書を熟覧するうちに、あることに気づいた。それは源太郎将軍の長男秀雄の「緒言」中に、ゆくりなくも露出した意味深長な言葉である。

 源太郎絶命前後の模様は、児玉家の家族や使用人の証言が詳しくのこされている。その朝、家族が事切れている源太郎を発見、医師が呼び込まれる以前、前夜源太郎を訪問して帰って行った後藤新平からの電話が早朝かかってきて、源太郎に異常はないかと尋ねてきたことに妻松子が首をかしげたなども証言として記録されている。それら人々の言動の時系列的な説明が、簡略というよりむしろ省略され、雑な描写になっていることは、諸書に共通する叙述でさえある。わたくしも不満だったが、このたび児玉秀雄が本書の緒言で次のように述べていることに特別の関心を抱いた次第だ。
 「 ―― 伝記ノ執筆ヲ知友黒田氏ニ嘱シ家伝ノ記録ト先輩ノ談片トヲ取舎(捨)シテ一篇トナス故ニ篇中往々誤謬アルヲ免レズ 幸ニ先輩並ニ史家ノ推教ヲ仰ギ後日之ヲ訂正スルヲ得バ不肖ノ面目之ニ過グル無シ」
 秀雄は源太郎絶命前後に関わる詳細な「家伝ノ記録」の省略ないしは不整合を指摘しているのではないかと、わたくしなどは推測するのだが、むろんこのことは児玉源太郎思い出のめずらしい画帖の解題をこころみる本稿の目的とは無縁の論議であり、「幸ニ先輩並ニ史家ノ推教ヲ仰ギ後日之ヲ訂正スルヲ得バ不肖ノ面目之ニ過グル無シ」とする源太郎の遺児児玉秀雄の意志に沿って、いずれの日にか新資料を得て真相に迫る日を待つことにしなければならない。

 さて『藤園記念画帖』は、まさに稀覯本というにふさわしく、よく掘り出されたもので、復刻者松村社長の執念による快挙というしかない。本書の存在はわたくしもかねて仄聞していたので、『天辺の椅子』執筆のころ、編集者に頼んで八方手をつくしたのだが、入手できなかった。
 〈本書は児玉家が「源太郎十三回忌記念」として真情こめて作成し、多分引き出物に使ったのではないかと思います。(略)他の派手な家でしたら、沢山作って大々的に配ることもあったかもしれませんが、御存知の通りのお家柄なので、必要なだけを造り必要なところだけへ送ったのではないかと思います。そんなこともあって地元、中央を問わず図書館にも無いのでしょう〉
 この松村社長からわたくしへの手紙にもあるように、一般の手には渡らない小部数の私家版だったのである。〈当時も日本最高の凸版印刷なので写真の仕上がりも鮮明です〉と、同じ手紙にある通り、たしかに収録されている写真類は、当時の印刷物にありがちの不鮮明な複写でなく、いきいきとした人物の表情や建物などふくめた情景をリアルに伝えている。戦場での記念写真や日常生活風景その他ふんだんに収められた古写真の山から、児玉源太郎の実像が浮かび出てくるのが楽しかった。ベルリンで撮ったと思われる「明治二十五年、洋行中ノ撮影」とある横向きのポートレートが、恩師メッケル将軍の肖像写真とそっくりであるのも面白かった。

 詩人でもあった藤園将軍の筆跡が多くちりばめてあるのも得がたい写真帖だが、わたくしにとって印象的だったのは、家族の写真だった。源太郎伝の初期にしばしば登場する姉久子の武家の女然とした写真もなつかしく、そしてきりりとした美貌をうかがわせる源太郎の妻松子の風姿を、わたくしはある熱い思いをもってながめたのだ。この写真に早く出会っていたら、若き児玉源太郎陸軍中尉と芸者松龍のロマンスを、もっと情緒豊かに描けたかもしれないと思ったりもしたのだった。
(本書パンフレットより)



  『藤園記念画帖』を推薦する
       東京大学名誉教授 伊藤 隆
 本画帖は、藤園・児玉源太郎の十三回忌に、その長男の秀雄が作成して関係者に配布したものである。その性質上大部数が印刷されたとは思えず、国会図書館にも所蔵されておらず、古書店にも殆ど見受けることがない。

 児玉は、毛利藩の支藩徳山藩の下級武士の出身、戊辰の役に防長諸隊の一つ献功隊の一員として五稜廓まで戦い、戦勝の後、選ばれて残留、京都・大阪で仏式の軍事訓練を受け、以後陸軍軍人として精励、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争(熊本籠城組)、メッケル将軍の薫陶を経て、明治二十二年には少将に昇進、陸軍大学校校長、陸軍次官のち参謀本部参謀を兼ねて日清戦争の後方支援を担当、戦後出征軍の凱旋にあたり、後藤新平を事務官長として登用し、自らは検疫局長をも兼ねて伝染病を予防、その間に台湾の港湾標識・海底電線の敷設に関わった事もあり(日清戦争での功績に対して男爵)、明治三十一年台湾総督(後藤を民政長官に登用し、大きな治績、その功で子爵)、さらに陸相を兼任、それを辞してのち内務大臣、日露戦争を前にして、大山巌の下で参謀次長、満洲軍総司令部の設置と共に、大山元帥の下で總参謀長として出征、戦勝ののち参謀総長という輝かしい経歴を持って陸軍の中枢に駆け上ったが、明治三十九年七月二十三日突然脳溢血のため逝去した。

 この画帳の前半は「遺影残墨」で、写真(当時のことだからスナップはなく、各時期の記念写真と詩、来簡―品川弥二郎、谷干城、長期に亘って上官であった大山巌など、自身の家族宛書簡)と自身の字、さらに山県有朋、品川、毛利元徳、伊藤博文、野村靖、桂太郎、乃木希典、野津道貫、西寛二郎、佐久間左馬太といった関係の深かった人びとからの書簡(単なる挨拶状ではなく内容のあるもので、史料的な価値が高い)を写真やコロタイプで複製したもの、そして後半は「家伝ノ記録ト先輩ノ談話トヲ取舎し」た黒田甲子郎による充実した伝記「藤園小伝」からなる。児玉の伝記の決定版はマツノ書店の復刻している宿利重一の『児玉源太郎』であろうが、それと共にこれも独自の価値を持つものであろう。

 私は平成八年に児玉の遺族のお許しを得て、かなり大量の、本画帖を作成した児玉秀雄の関係文書を尚友倶楽部にお預かりすることが出来た。尚友倶楽部が援助してくれ、尚友倶楽部調査室の皆さんの手で目録を作成し、解読をして、また数人の友人の援助も受けて、書簡・電報類を纏めた『児玉秀雄関係文書』上・下を本年刊行した。『藤園記念画帖』に収録されたものを含む児玉源太郎の関係文書は第二次大戦中に徳山に疎開されていた所、そこが空襲に遭って焼失の憂き目にあったという。

 私共がお預かりしている「児玉秀雄関係文書」に若干の児玉源太郎関係の文書が含まれている。その中で、児玉源太郎が関わっていたと思われる桂太郎の上奏文案(明治三十五年十二月のものと推定)を見つけ、これをコピーして貰って調査し、当時連続して行っていた尚友倶楽部の近代史研究会の第二回に「税金と議会」という題で話をした(のち『日本歴史』五九六、平成十年一月号に「桂上奏文をめぐって」と題して掲載、さらに著書『近代日本の人物と史料』(青史出版、平成十二年)に収録)。「小伝」でも触れているが、この時期の児玉は軍人であると共に、政治上でも活躍しており、特に伊藤博文・桂太郎の間の調停をしていた。『伊藤博文関係文書』『桂太郎関係文書』(最近千葉功氏の手で出版された)に多くの児玉書簡が収録されている。その他でも『品川弥二郎関係文書』『山県有朋関係文書』「後藤新平関係文書」中にも書簡が残されている。

 現在尚友倶楽部に保管されている「児玉秀雄関係文書」中にも、源太郎関係の、その他の興味深い史料も含まれている。いずれ全体が国会図書館憲政資料室に寄贈され公開される事になる予定である。いずれにしても本書は児玉をめぐる史料状況にいくつかの興味深い情報を追加するものとなろう。
(本書パンフレットより)