文才豊かな総指揮官が描いたあらゆる幕末維新戦記の白眉!
山縣公遺稿 こしのやまかぜ 続日本史籍協会叢書
 山縣有朋
  マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和45年 東京大学出版会
   2012年刊行 A5判 上製函入 707頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ



■本書は幕末維新期における山県有朋の全著作、下記の五点を「続日本史籍協会叢書」の一冊として昭和54年に東京大学出版会より刊行され、すぐに売切れ、三十年以上も入手困難でした。(それぞれの原本は戦前から入手困難)
@有朋の奇兵隊史『懐旧記事』 (214頁)
A日記『葉桜日記』 (40頁)
B北越戦出陣中の簡潔正確な手記 『越の山風』(238頁)
C漢詩集『椿山誌存』(24頁)
D和歌集『椿山集』 一五〇頁。 
※藤井貞文「解説」(20頁)も非常に充実

■卓抜の文学的素養をもつ総指揮官が描いたこれらの作品は以前から高い評価を受けていましたが、今回の復刻を機に小社では「あらゆる幕末維新戦記の中でも群を抜く、お勧め本のナンバー・ワン」として、また「若き山県有朋を知るため唯一の文献」として自信を持ってお勧め致します。

■『越の山風』だけを復刻することも考えましたが、どうしても残りの四篇を捨てるに忍びず……、そのわけは、本書をお読み頂ければおわかりと思います。本書が、永らく続いた「山県有朋についての大いなる誤解」を解消する一石になることを信じつつ。



山県有朋の奇兵隊史
  萩博物館特別学芸員 一坂 太郎
 奇兵隊といえば、武士以外の庶民にまで門戸を開いた近代的な軍隊といったイメージが定着している。そのことは、そのまま「開闢総督」の高杉晋作の思想と重なるように思われがちだが、それは違う。奇兵隊史六年半のうち、晋作が直接かかわったのは三カ月ほどだ。しかも藩のエリートだった晋作は、下級武士や庶民が軍事力を背景に政治的発言力を持つことを苦々しく思い、戸惑い続けた。そこが、時代の過渡期を生きた晋作の魅力だ。イデオロギーにまみれた、市民革命の先覚者的な晋作評には、いささか首を傾げたくなる。

 奇兵隊を指揮し、幕末史上燦然と輝くまでの存在に成長させたのは、軍監の山県有朋(狂介)の働きによる部分が大きい。動乱の波に乗り、はい上がろうとする下級武士の山県にとり、奇兵隊は強くなければならなかった。それは自身の将来に直結する、切実な問題であった。この点、二十九歳で病没した晋作に対する判官贔屓もあってか、軽視され続けている気がしてならない。

 軍国主義の権化のごとく扱われ、悪名高かった山県だが近年、再評価の動きが盛んだ。研究者の世代交代が進んだのも、大きな要因のひとつだろう。もっともそれは明治以降、国家の運命を背負い、現実主義者として舵を切って進んだ山県に対してだが、その出発点はもちろん幕末、奇兵隊における経験であった。

 このたびマツノ書店から復刻される山県の遺稿集の骨子となっているのは、『懐旧記事』と『越の山風』だ。
 『懐旧記事』は安政五年(1858)(山県は安政四年と誤記する)の上京から慶応三年(1867)十一月の奇兵隊出兵までの、『越の山風』は明治元年(1868)の戊辰戦争(北越方面)の回顧録である。山県が隊を離れた後に起こった「脱隊騒動」以外は、奇兵隊史をほぼ網羅していると言っていい。

 長州藩という巨大な権力に、山県が奇兵隊をバックにいかにして対抗し、関与していたかを語っている点など、特に貴重だ。
 たとえば、『懐旧記事』の藩内戦終盤近くの部分。敗色が濃くなった「俗論党」が鎮撫の名義で、藩主世子を出馬させるとの風聞があった。「正義派」鴻城軍の井上馨などは動揺し、割腹して謝罪すると言い出す。これを知った奇兵隊の山県は、「正義派」は洞春公(毛利元就)の霊牌を真っ先に押し立てて進み、戦えばいいのだと言い出す。生身の世子に、紙切れ一枚で対抗するのだ。権威権力という、まやかしの持つ本質を冷静に見抜いていた山県に、恐ろしさすら感じてしまう。だからこそ、天皇制近代国家を樹立することが出来たのだと、納得させられる。

 一方、四境戦争のさい、幕府からも見捨てられ、なお長州藩と戦い続けねばならなかった小倉藩を称え、「其忠節を幕府に尽すに至りては当時只一の小倉もあるのみ…他日徳川幕府の為に其史を修むる者あらば是を大書特書して可なり」と語り、古武士的な一面も見せる。こうした「武士道」もまた、近代日本の推進力だった。山県だ、奇兵隊だというよりも近代日本の出発点を知るため、不可欠の史料として広くお薦めする。
(本書パンフレットより)



  歴史と詩文の才人 ─山県有朋の実像を知る
  東京大学教授 山内 昌之
 山県有朋ほど誤解されがちな明治の政治家も少ないだろう。大正まで元老として生き長らえただけに、原敬首相らの大正デモクラシーの敵対者というイメージが固定してしまった。
 また、彼の出自が萩藩城下の卒族出身だったために、世間は彼の成功を成り上がりの典型として冷笑する傾向もあった。こうした偏見や先入観は、ともすれば山県の果たした役割を必要以上に貶めることにもなった。

 確かに山県家は、長州藩の蔵元付中間として足軽以下の階級に属する軽輩であったが、その父有稔は藩に出仕して能吏の評価も高く、国学の造詣も深かった。父は有朋の教育に熱心であり、漢学や和学などの教養においても有朋は才を発揮したのである。
 このことは、今回マツノ書店から復刻される『懐旧記事』や『こしのやまかぜ』などを読むと一目瞭然である。

 『懐旧記事』は、他人の書いた明治維新史に満足せず自ら記憶を文章に起した作品であるが、近代の学問としての歴史学の手続きにも近い問題意識でまとめたふしもある。なかなかに見上げたものなのだ。すなわち山県は本の「緒言」において、口述筆記した原稿を自ら点検し、往事を回顧しただけでなく、遺漏を補い、一緒に行動した人物らに事実関係を問いながら、「尋繹参互」(じんえきさんご)して作品を完成したと自負している。
 「尋繹参互」という表現あたりに、山県の教養がうかがえる。尋繹とは「たずねきわめる」、参互は「比較する」という意味であるが、参互という語はすぐに清代の歴史家・章学誠のいう「参互捜討」(さんごそうとう)を想起させる。史料を探して網羅しながら内容を比較する参互捜討は、近代歴史学の基礎につながる考え方であり、山県は一七三八(乾隆三)年に生まれた章学誠の学問を知っていたのかもしれない。
 山県の歴史センスは、「懐旧記事」の第一巻巻頭にもうかがえる。

 「歳月の経過するや其の迅疾なる飛丸もただならず。今日よりして三十余年前の往事を回想すればすでに歴史上の事蹟に属す」。

 簡潔ではあるが、なかなかに歴史とは何かをよくとらえた一文というべきだろう。しかも、山県本来の文才や詩藻もうかがえるあたりが好ましい。
 山県の詩人としての才は、『こしのやまかぜ』の題名に採られた有名な和歌に遺憾なく発揮されている。すなわち慶応四年五月、戊辰戦争のとき長岡攻めのために、新政府軍が小千谷から信濃川の対岸、榎峠と朝日山に展開する奥羽越列藩同盟軍を攻略しようとしたときのことだ。山県は奇兵隊以来の盟友・時山直八をこの激戦で失うことになった。この悲劇を哭するかのような名歌は、歌人山県の名を不朽のものとした。

 あだ守る 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

 また、十年以上たっても、時山の墓に参った山県は、友の死を漢詩で追悼している。この詩もなかなかに情誼の厚さを示すものだ。

 江声山色総相知  江声 山色 すべて相(あい)知る
 路入越州思旧時  路 越州に入り 旧時を思う
 泉下英雄覓無処  泉下の英雄 求めるところなし
 蕭々故塁雨如糸  蕭々として 故塁に雨 糸のごとし

 他方、山県は武人として、『こしのやまかぜ』において北越戦争を戦記として描くことを忘れていない。しかし、そこでも山県は索漠とした戦場の形勝をさりげなく詩のように点描している。これは人為ではなく自然の才の発露なのだろう。たとえば、朝日山をめぐる攻防戦の難しさも実に単簡に表されるのだ。

 「天気は雨ならざれば即ち曇りにて夜間の如きは一点の星光をも見ること能(あた)はず、其の惨悽、殆んど言ふ可からざるものあり」。

 今回、マツノ書店が復刻した山県有朋の書物は、軍人政治家の根底にひそむ歴史や詩文の才を浮かび上がらせた点でも好個の作品なのである。山県への好き嫌いを捨て等身大の軍人政治家を知る上でも絶好の史料というべきであろう。
(本書パンフレットより)