わが国赤十字の第一歩を記した医聖の生涯と多様な視点でとらえた函館戦争の記録
高松凌雲翁経歴談・函館戦争史料
続日本史籍協会叢書
マツノ書店 復刻版
   2013年刊行 A5判 上製函入 340頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『高松凌雲翁経歴談・函館戦争史料』  略目次
■高松凌雲翁経歴談
序、高松家世系、幼時、立志、医学、仕官、洋行、東走始末、宅仁由義

■箱館戦争史料
@戦争御届書 松前脩広 
A箱館戦争始末 岡山藩
B戊辰藩情 弘前藩 
C賞功録一綴 岡山藩 
 函館賞典禄一・二 武功案 戦兵賞功案  賞功案 賞典案 夫卒賞典案 
明治三年十月廿一日調 奥羽・箱館 賞功名簿

■解題・小西四郎


 転換期をとらえる多様な視線
     幕末史研究家 西澤 朱実
 戊辰内戦の最終段階として出来した箱館戦争は、様々な意味で近代と前近代を分ける画期となった。戦闘に投入された銃火器や艦船などの物質面はもちろん、国際法を背景に誕生したいわゆる箱館共和国のように、知識や精神・システムにおける近代性もまた、この戦いを定義するキイワードの一つである。中でも旧幕軍の箱館病院は、我が国赤十字の嚆矢となり戦争終結への中心的役割を担った点で、近代戦としての箱館戦争を象徴する存在と言ってよいだろう。

 本書前半の「高松凌雲翁経歴談」は、その箱館病院を興し、全権委任を以てこれを統轄した高松凌雲の一代記である。その折々の言動を盟友=磐瀬玄策が門人らに取材し、自伝風にまとめたもので、明治四五年、上野精養軒で開かれた凌雲喜寿の祝賀会に於て頒布された。が、ここでは筑後古飯村の豪農の三男から将軍侍医へと駆け上った出世譚も、石川桜所と緒方洪庵に学び、後年警視局から「官等月俸は所望に従ふ可し」と重聘される卓越した技量の習得過程も、合わせて全体の二割程度しか触れられない。本編がこれこそが高松凌雲だと世に示すのは、慶応三年、徳川昭武のパリ万博使節団として欧州に学んだ新知識人であり、維新後すべての仕官話を謝絶し、同愛社による貧民医療に生涯を捧げた在野の医師であり、そして何より、箱館戦争で傷病兵を守り抜いたヒューマニストとしての姿である。

 凌雲の滞欧は一年半近くに及んだが、本編では昭武に従いスイス・イタリアなどを訪れた約二ヵ月半が主に語られる。昭武の『渡欧日記』や渋沢栄一『滞仏日記』に比べて淡泊な記述とはいえ、軍事演習や工場、史跡・劇場・美術館に至るまで、彼らが見聞したものの多様さに驚かされるだろう。余談ながら、この頃、佐賀藩からはのちに日本赤十字社を興す佐野常民が渡欧中であり、凌雲と佐野という二人の医師が、ほぼ同時期にそれぞれの立場で赤十字の存在を学んでいたことは興味深い。

 英医ウィリスが負傷捕虜の鏖殺を危惧した戊辰戦争当時、北航した凌雲と旧幕軍箱館病院による敵味方ない施療は、我が国赤十字の第一歩となる画期的な行為だった。しかし彼らの真価はむしろ、戦火が迫る中でその地に在り続け、アンリ・デュナンの説く救護者の中立性を病院の非戦中立として体現することで敵・味方を超える第三の道を戦場に示した、より本質的な赤十字精神の発動にこそ見出されるべきだろう。残念ながら、その原点となる出逢いは本編に記されないが、「欧洲各国に於ても負傷して戦闘力なき者は彼我の別なく互に治療を施すの法あり」との凌雲の言葉は、この時箱館に持ち込まれたものがカタチとしての赤十字ではなく、十六ヵ国が締約し、発足間もない赤十字社を唯一無二の存在たらしめた、ジュネーヴ条約の理念そのものだったことを示唆している。それはまた、病院を介した終戦工作という世界的に稀有な試みが、箱館に於て可能となる最大の要因でもあった。

 明治二年五月十二日夜、薩摩藩から入院中の諏訪常吉へ依頼して始まるこの和議勧告については、『小野権之丞日記』にさらに詳しく、本編との併読が望まれるところである。実際、凌雲が五月十四日朝と記憶する五稜郭からの返書は、『小野日記』により同日夕方以降へと修正されることで、十二日からの一連の流れの中で整合性を伴う事象となっていく。この、人と文書の往来が透映するのは、戦争という極限状態の下、情と理の間で葛藤しつつもより平和的・人道的な未来を志す理性の輝きである。それは凌雲や小野、使者となった傷病兵らに限らず、病院保護を最初に約した山下喜次郎をはじめ、池田次郎兵衛(貞賢)や田島敬蔵(永山友右衛門盛繁)・村橋直衛など、和議周旋に携わった薩軍士官の多くが凌雲への激励と食糧・医薬品の提供を惜しまなかったことにも見出すことができるだろう。特に池田に対する凌雲の謝意は並々ならず、本編は彼への追悼で終わると言っても過言ではない。池田も病院接収時の貴重な証言を残し(『史談会速記録』二〇二輯)、再会を果たした最晩年、凌雲のために山水画を描き厚情に応えた。絶筆となったこの絵は本書の巻頭を飾り、五稜郭や弁天台場からの返書(五稜郭分は写本)の写真とともに、幾星霜を経てなお失われぬ情誼と、その折の時間の重みを今日に伝えている。

 ところで、当時旧幕軍箱館病院が洋薬を用い、官軍の大病院より遙かに施療が充実していたことや、患者の銃・金創は三割弱にすぎず、多くが病者であったことなどは、医学史上特筆されるべきだろう。本編は、近代医学の転機に於ける一側面を簡略ながら記録するとともに、病院への艦砲弾・小銃弾の飛来を生々しく綴り、あるいは凌雲の実兄=古屋佐久左衛門や関広右衛門、永峰弥吉・佐和正といった関係者の動向を伝え、数少ない非戦闘員の手記として、各方面の研究に有為な情報を提供するものでもある。

 戦後の凌雲は徳島藩邸での謹慎を経て開業し、在野の医師として終わるが、箱館病院はその後の彼の人生の原点であり続けた。明治十二年、留学中に通ったパリ市民病院のような「人民共立ノ貧民病院」(『同愛社五十年史』)の設立を目指して立ち上げた同愛社は、戦時と平時の違いこそあれ、箱館病院が掲げたヒューマニズムと同じ理念の産物である。

 常に病者という弱者に寄り添った凌雲は、かつて多くの志士の背中を押した「上医は国を医し中医は人を医し下医は病を医す」の麗辞の対極に、それが定める上下の別を超えてあり続ける存在と言ってよいだろう。患者の信頼なくして医の本分は尽くせぬと語り、古武士のように義理堅く信義と礼節を重んずるその姿からは、単に病を癒すことを生業とするにとどまらない、国の基たる  人≠診る者としての、あるいは明治日本を医療面から近代国家へと導く者としての、揺るぎない信念と高い矜恃が窺える。徳川慶喜から贈られた「至誠一貫」の文字そのままに、移ろう時代の中で変わらぬ医の誠を追い求めた魂の軌跡が、高松凌雲という生なのである。

 一方、本書の後半を占める「函館戦争史料」は、凌雲とは逆の視点から捉えた箱館戦争になる。昭和十年、函館招魂社が祭神である官軍戦没者の事蹟伝承を目的に編んだ書籍の第一輯で、松前藩「戦争御届書」、弘前藩「戊辰藩情」、岡山藩の「箱館戦争始末」と「賞功録一綴」を収録する。一見して分かるように、広く官軍側から箱館戦争の記録を試みた意欲作であり、未刊の第二輯以降を含め、シリーズの完成形を見たかったと思わせる史料集である。

 このうち「戦争御届書」と「箱館戦争始末」は『復古記』が採録する「松前修広家記」「岡山藩記」とほぼ同文だが、断片化していない分、一連の経緯を捉えやすい。特に達書類の多い「箱館戦争始末」は、岡山藩のみならず、青森口総督府や軍務官の記録としても充分な内容を備えていると言えるだろう。旧幕軍側史料ではほとんど触れられない、湯の川方面の恭順の詳細が見られる点も興味深い。他方、松前藩「戦争御届書」には戦果の過大申告が認められ、内容的に少々危ういが、末尾の分捕品一覧が目を引く。スナイドル銃の弾薬や薬莢・サーベルといった旧幕軍の装備実態を窺わせる遺留物はもとより、陣地や小屋まで申請されるのには驚くばかりである。また、ここで捕虜が物品同様の記載となっていることと関連して、同藩には、高松凌雲が憤慨した高龍寺での傷病兵虐殺や、捕虜虐待の疑いが残る点に注意しておきたい。

 ところで、これらの収録史料中、最も異彩を放つのは岡山藩の「賞功録一綴」だろう。計八編の行賞録と草案に、のべ一千人近い従軍者の戦功と恩賞が細かく記録されている。箱館戦争限定とはいえ、上級藩士から農民まで一藩丸々の行賞は圧巻で、特に白黒の丸印で戦の大小がカウントされた「武功案(厚沢辺口)」は、論功過程を窺える珍しい史料である。逆に弘前藩「戊辰藩情」では大半が奥羽戦争期の記録となり、箱館戦争に関するものは末尾の名簿類の一部に限られる。とはいえ、戦没者十七名の生年・出自・埋葬地が記された「戊辰役戦死人名」などは、歴史のごく細部を埋める堅実な史料である。

 本書は、「高松凌雲翁経歴談」と「函館戦争史料」という、視点もスタイルも異なる二冊が合本されているため、全体的な統一感にはやや欠ける印象が否めない。が、その視線の多様性は、箱館戦争はもちろん、それを経て急速に近代化した明治日本をより深く読み解く標となるだろう。本書の復刻が、かの時代へのさらなるアプローチの源となることを願う次第である。
(本書パンフレットより)