その先見で多くの功績を上げながら維新前夜、惜しくも斬首された「明治の父」の生涯を描く
海軍の先駆者小栗上野介正伝
  阿部 道山
  マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和16年
   2013年刊行 A5判 上製函入 430頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 『小栗上野介正伝』 略目次
@海軍の父 小粟上野介の全貌
 小栗上野介小伝
 小栗上野介の新らしき史的考察
海軍の父小粟上野介
 武将小栗忠政の血を受けた上野介
 槍術無双の又一忠政
 五輪の指物
 戦場秘話
 忠政の墓壊滅を免る
 普門院と忠政
 徳富蘇峰先生の上野介観
勅を奉じ断乎軍港創設
 青年宰相阿部閣老の失敗
 開国の恩人井伊と小栗
 小栗上野介の任免譜
 勅諭を拝し万民感泣す
 井伊大老と上野介の異る点
新文化を吸収した小栗
 ポーハタン号の使節の船室
 遣米使節としての上野介
 咸臨丸と福澤諭吉
 木村摂津守全財産を失ふ
 使節一行の珍談
一行華府着の光景
 ウイラード・ホテル
 使節一行と白亜館
 大統領と公式謁見
 小栗上野介は全権か監察か
 大統領の大饗宴
全権一行と米陸軍の観兵式
 お札博士の観た小栗
 米海軍中尉ジヨンストン氏の小栗観
 ジヨンストン中尉とはどんな人か
 海軍の建設を企画ー遣米より得たる副産物
かうして海軍力は展びた
 横須賀海軍工廠開設の起原
 職を賭して造船廠建設に当たる
 製鉄所約定と轟々たる反対論  小栗の妙案海軍軍律を正す
 仏国との交渉顛末文書(メルメデカション口訳筆記)
 幕末海軍の概勢
 日本最初の海軍兵学校(長崎海軍伝習所)
 造船所の先駆長崎製鉄所(現三菱造船所)
 惜まるる長崎海軍伝習所の廃止
 仏英を教師としての海軍伝習

A小粟上野介の生涯を語る
 小栗上野介の修養時代
 禅を学ぶ青年 小栗の腹と才
朝敵か大功臣か
 小栗上野介の銅像建設
 皇后陛下の有難き御言葉を伝ふ
 海軍省より錨、水雷を下附さる
小栗上野介の最期
 江戸引上げの理由 
 大砲と銃を持つて去る
 赤城山に軍用金を埋めたは嘘か事実か上野介の恭順 
 小栗追捕状と出先官憲の越権 上野介父子斬首さる 
 小栗殺害の隠蔽策 
 罪状申渡しの届書 良心の呵責 小栗の墓を建立
小粟上野介を斬つた原保太郎翁と語る
 生きていた 原翁と対座 かうして斬つた小栗の駿馬に蹴らる
 首の落つるとき 原翁晩年の心境
 保太郁翁の死
小栗上野介の首級とその墓
 小栗家の主張と普門院
 小栗家と小栗上野介の墓の決定
 山内に伝はる首級
 何処に身を寄せたか
 権田は上野介夫人の嫌つた所

B文学に現はれた小粟上野介の片影
 村松梢風氏著一「ふらんすお政」 島崎藤村氏著「夜明け前」
 近松秋江氏著「小栗上野介」
 吉川英治氏著「檜山兄弟」
 中里介山氏著「大菩薩峠」
 中里介山先生と私
 蜷川博士にお答へいたします
小栗上野介の開国思想
小栗上野介とその開国思想
 借歎・開国・売国奴
 小栗の計画した六百萬弗借款
幕末金埋蔵風聞記
 果して小栗上野介は金を埋めたか
 小栗をまつり上げるまでの道筋
私も、つい乗った 頭山先生一行の墓参 又はじめた
小栗上野介の下僚としての勝海舟と福澤諭吉
 小栗と勝 小栗と福沢 榎本武揚を助命した福沢 西郷が敬服した福沢 勝と福沢 武士道と勝

C研究余滴
烏川の恩讐 
 烏川の風光 室田で戦闘ばなし 罪なくして斬らる 東善寺老僧と語る閻魔大王の歩哨
小栗上野介と海軍の巨星
 水交社の饗宴
小栗上野介と大猷和尚
 上野介と女学生 小栗と海軍の父
 我が国最初の建艦「清輝」の進水
 上野介と大猷和尚 大猷和尚の公案 上野介と大猷和尚の訣別 雄渾な直筆 金五拾両 悲惨なる大猷和尚の最期
軍馬の改革と小栗上野介
小栗の献金政策
明治大帝ウエルニーに勅語を賜ふ ー海軍に賜ふた勅語の嚆矢
 小栗とウエルニー ウェルニーに勅語を賜ふ 地下で感泣
三井財閥と小栗上野介
 三井を築き上げた三野村利左衛門
 小栗上野介と三野村利左衛門
 三野村の報恩
 三野村小栗の遣族を救ふ
新聞事業の先覚者小栗上野介
岡田首相と床次逓相の展墓
 我が海軍の恩人小栗上野介を語る
小栗まつり雑記
 十年一昔 まつりの前後 小栗祭 横須賀ゆき 花立と拙著
小栗上野介の国家功績に関する高位大官の辞
 招魂碑建設、回忌等に関するもの


  「真の武士」小栗忠順
   東善寺 住職 村上 泰賢
  遣米使節の見聞
 小栗忠順はほとんど国民に知られていない。
 幕府解散で勘定奉行及び海軍・陸軍奉行の兼職を解かれ、江戸から知行地上州権田村に移り帰農隠棲を進めていた小栗父子主従を捕らえ、無実の罪を着せて殺害したのが西軍である。明治五、六年に学校制度始めた明治新政府は幕府政治を低く評価する歴史教育を基調とし、日本近代化に尽した小栗忠順の業績も表に出さず「日本の近代化は明治政府が手がけて成功した」と教育宣伝してきた。

 本書はその明治以来の風潮がまだ色濃く残る昭和十六年に「海軍の先覚者」としての小栗の業績を確認顕彰しようと発刊されたもの。先学の関連書籍をよく渉猟吟味し縦横に加減調和した力作で、当時としては小栗忠順に関する画期的かつ勇気ある出版であったといえよう。

 どこの国の歴史にも継続性があるはずで、日本の近代化も明治以後いきなり突然変異で成ったものではない。江戸幕府が二六〇年間戦争をしない世界史でもまれな政治によって蓄えられ積み上げられた民力が、日本人の気質と識字率80%と言われる教育・文化を築き、それを基盤として幕末にすでに日本近代化の努力が重ねられていた。そうした江戸時代を引き継いで、明治の近代化は花開いている。

 なかでも幕末の小栗忠順の業績には目覚ましいものがあり、遣米使節(1860)から帰国後八年間に、
  横須賀製鉄所(造船所)建設の推進・洋式陸軍制度(歩兵・騎兵・砲兵)の採用、訓練・フランス語学校「仏語伝習所」設立(横浜)・鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(群馬県下仁田町)・日本最初の株式会社を設立「兵庫商社」「船会社(小布施)」「築地ホテル(江戸)」など・ガス灯設置・郵便電信制度の開設・新聞発行を提唱・鉄道建設の提唱・金札発行など金融経済の立て直し・郡県制度の提唱・森林保護の提唱
  とまさに日本改造とも言うべき多岐にわたる内容で、「明治の近代化は小栗上野介の敷いたレールの上になされた」とまで言われている。

 その業績を検証すると、万延元年(1860)の遣米使節としてのアメリカや世界一周における見聞が大きな影響を与えていることは、本書で「幕末政治家として群をぬき、更生新日本再建のため、軍事、外交、経済、あらゆる角度に変革を策し、国家のため短き生涯を国に捧げた基礎は、正しくこの遣米使節として海外を闊歩しその見聞に依って得た知識の発露にあった」と記す通りである。
 それゆえ、小栗忠順の業績を確認するにはアメリカでの見聞体験を正確になぞる必要がある。
 米艦ポウハタン号で渡米したアメリカの見聞で最大の収穫は、ワシントン海軍造船所の見学であった。まず案内されたのは、鉄の塊を熔解して、蒸気機関の釜、シャフト、パイプなどの鉄製品を造る大きな工場。大砲やライフルの部品も造り、組み立てるネジ船室のドアノブまで、あらゆる鉄製品を造船所で造っている。蒸気機関の動力を巧みに利用し、数人で簡単に鉄を切断する様子に驚く。

 当時の黒船は木造船だから造船所に木工所もあり、たくさんの木材を板に挽いて、船体、船室、階段、床を造り、蒸気機関と帆走を併用していたから製帆所もあり、ロープを造る製綱所もある。さらに案内されるとたくさんの部品を集めて「船も」造っていた。まさに造船所はすべての製品が一つの工場内で補い合って生産され、「船も」造る総合工場と言えるものであった。
 ニューヨークタイムズは使節一行を
  「彼らは財布をはたいて、あらゆる種類の反物、金物、火器(銃)、宝石類、ガラス器、光学機器そのほかわれわれの創意と工夫を示す無数のものを買う。我が国と日本との通商の道が十分に開放されれば、これらの物品はそっくりまねされ改良されて、わが国に戻ってくるに違いない」と報じ、続けて
  「小栗豊後守(忠順)はアメリカの進んだ文明の利器を日本に導入することに大賛成であると云われている」(1860年6月22日)
と、小栗忠順の先見性が際立っていることを報じている。

 米国の工業力に圧倒され、日本は何から手をつけたらいいかと模索していた小栗は、この見学で本格的な総合工場としての造船所が日本の近代化を進めるに最適な施設であると確信、帰国四年後にその提案が通り、翌慶応元年(一八六五)に着工したのが横須賀製鉄所(造船所)である。以後、この横須賀製鉄所は日本の近代工業の原動力として日本中に種子を飛ばし続けた。日本の産業革命はワシントン海軍造船所見学を契機として建設された横須賀造船所で始まったと見ていい。

 ところがこの遣米使節の歴史もまた、学校教育で隠されてきた。隠した証拠が随行船咸臨丸の話。日本人は大正7年から昭和20年敗戦まで、国定の修身教科書(歴史教科書ではない)で、虚実取り混ぜの脚色された咸臨丸「神話」を刷り込まれ、いまだにその後遺症から脱していない。私は現在の歴史教科書から咸臨丸の絵を外し、代わりに横須賀造船所建設の原点となったワシントン海軍造船所見学の記念写真(本書掲載)、を掲載して歴史の継続性を教えるべき、と考えている。

  幕府の運命、日本の運命
 小栗忠順の造船所建設提案には、時期尚早などさまざまな反対論が渦巻いた。旧幕臣島田三郎は往時を回想し、
  小栗は「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない。自分は幕府の臣であるから幕府のために尽す身分ではあるけれども、それは結局日本のためであって、幕府のしたことが長く日本の為となって、コ川のした仕事が成功したのだ、とのちに言われれば徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売据えにしても土蔵付き売据えのほうがよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った(島田三郎『同方会報告』第壱号)
 国が滅びてもこの身が倒れるまで公事に尽くすのが真の武士である(福地源一郎『幕末政治家』)と、いずれ新しい家主が入るこの売家(政権)を土蔵(横須賀造船所)付きにして渡してやればいいという江戸っ子の洒落と、彼のすぐれた先見性、国家観を伝えている。

  横須賀造船所から産業革命
 幕末に水車で大砲の砲身をくり抜こうとして一昼夜で三〇aしか開けられなかった。横須賀に大きな川はない。横須賀製鉄所では最初から蒸気機関を原動力としていた。横須賀製鉄所を定義づければ、蒸気機関を原動力とする日本最初の本格的な総合工場、としてまさに日本の産業革命の地と言える。「日本近代工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『三浦半島記』)とは、このことを指す。完成後は外国船の船舶修理も請け負い
  「毎(つね)に英米の商船、露仏の鉄艦、大となく小となく修理工作を依頼して踵(きびす)を接す。」 (『横須賀繁盛記』明治21年)
状況で、修理費の収入も莫大であった。海軍専用「軍港の街」となったのは明治後期からのこと。それ以前の総合工場としてのオープンな横須賀造船所を見直すことが、小栗忠順の意図を理解するに欠かせない。

 明治45年夏、東郷平八郎が小栗の遺族に「日本海海戦においてロシア艦隊を完全に破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ…」と礼を述べ揮毫を贈った(本書)のも、うなずける。
 まさに日本の運命は「真の武士」たらんとした小栗忠順の構想した近代化に支えられていたといえよう。
(本書パンフレットより)