『七年史』『京都守護職始末』に続き、東軍へのいわれなき曲解を
真実と圧倒的筆力で覆す不朽の史論
維新前後の政争と小栗上野 (正続 合本)
 蜷川 新
 マツノ書店 復刻版
   2014年刊行 A5判 上製函入 716頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 序 (本書正編より)  
  昭和三年八月 男爵 山川健次郎 
 明治戊辰の年、旧幕臣小栗上野介の内室は誕生して久しからぬ一女児を伴ひ、予が親戚横山主税常盛が会津の第に寄寓せり、予横山家の人々の談により、内室が其の領地上野国権田の陣屋より避難し、新潟を経て会津へ来る迄、偏に辛苦を嘗めし状態を聞き、同情に堪へざりき、其の後小栗氏の虐殺、又其の人となりを知るに及び、小栗氏に対する同情益々深きを加ふ、小栗氏は徳川幕府の末造に於て、其の識見手腕天下に匹儔なかりしなり、其の廃藩置県を主張せるが如き、横須賀の造船所を創建せるが如き、識見手腕の一班を見る可く、共の他外交に経済に、其の国家に貢献せしもの甚だ多し、氏の捕へらるゝや、一回の訊問なく、河原に引き出だし、荒薦に座せしめ、縛首の刑に処せしと云ふ、是蓋し武士を遇するの道を知らざる徒輩の蛮行なりしなり、小栗氏の陣屋に武器多かりしを以て、彼等は小栗氏の罪過とせりと云ふ、武家に武器あるは猶商家に商品あるが如し、何ぞ是を以て罪とすべけんや、当時世人は小栗氏が強硬なる長州征伐論者なりしにより、是の奇禍に罹れりと云へり、予是の説の当否を知らず、友人蜷川博士小栗氏の伝を著し序文を予に徴む、交誼上辞す可からず、仍って所懐を述ベて序文に代ふ。

本書続編「序」冒頭より
 一昨年九月、余が「維新前後の政争と小粟上野の死」を公にするや、共鳴者の意外に多かりしと同時に、又小粟を賞め過ぎ、勝や西郷を貶し過ぐると忠告せられたる先輩もあり、又正論には相違なきも今日に至りて鳥羽伏見の事件の欺瞞的内情を素破抜くのは如何のものかと思ふなぞと注意せられた先輩もあつた。凡そ物には両面がある、余の著書が其人によりて賛否の判断の岐るのは必然の数である。余としては、日本国の歴史を正ふするのが目的であり、故更に小栗を賞揚し、徳川方を強いて弁護するのが本旨ではない。余は前著に於ては、余りに遠慮して史実を取扱ひしことを悔いたのであった、遠慮は無益なるを覚へた、一層厳俊に史実に対し其研究を発表するを以て余の責任也と感じた、本書を後編として上梓するに至りしは、其の爲めである。
 従来の維薪前後の歴史は、政争に勝ちし側の人々に於てのみ書き叉は書かしめたる片面史である。今人は此れに依って、当年の事を解せしめられ、之れに巻き込まれて居るのである。
(以下略)

『維新前後の政争と小栗上野』 略目次
【正 編】
前編 小粟上野の功業と冤死
 小栗上野の外交上に於ける功蹟
  @ 安政條約交換使節の大任と米国人の賞讃 A対州島に於ける露国の艦長 に対する小栗の決死的談判
  余録 @小栗上野介とスタンフォー ド大学の教授 A最初の遣米使節の写真に付て B小栗上野介の米国土産
 小栗上野の我が国の軍事上に於ける功蹟
 国家財政及経済上に於ける功蹟
 国内統一の秘策及郡県制施行の主張
 小栗上野介と最後の江戸城大會議及小栗の薩長抹殺の作戦計画
 小栗上野介と江戸を去り上州権田村に退く及暴徒の襲撃      
 小栗上野介の反逆人としての冤罪及小栗父子の斬首と梟首
 小栗上野介の母堂と夫人の辛うじての避難並に其悲劇
 小栗上野介の家筋と其履歴
 小栗上野介と當時の名士の対照
 小栗上野介の人物と性格
 銅像建設、横須賀海軍工廠の小栗の功蹟に関する国家的公 正なる声明、御内帑金の下賜

後編 維新前後の政争と自由批判
 維新と其前後との区別
 鎖国攘夷論の危険性
 維新前後、薩藩の権謀術策
 維新後江戸及関東に於ける強盗放火と其の背後の人西郷
 慶応三年十二月九日の所謂小御所会議と山内容堂の正論、岩倉及  西郷の権謀
 鳥羽伏見の変と開戦の責任者たる薩長
 江戸城引渡の真相と英公使パー クスの干渉
 徳川方脱走者の飛檄
 東北二十余藩奮起と輪王寺宮の令旨
 会津藩の忠誠と其正当防衛
  附・旧会津藩出身某先輩の会津開城に付ての弁明
 維新以後の内乱と国民の犠牲

【続 編】
 日本国史上より観る維新
 慶応の維新
 「慶応」は何時「明治」と改められし乎
 事実と事理無視の幕末史論
 慶喜西京を走り大阪に至る折の上奏文
 薩長土肥四藩主の藩籍奉還の建白書と其内容検討
 公卿の攘夷論と其の世界事情の不知
 攘夷論者は天下を欺ける乎
 維新後の崇夷外交への激変
 雲井龍雄の諸藩に飛せる檄文
 討幕論者の真の目的は果して何なりし哉
 ペルリ来航時代の古き文献
 ペルリ渡来に関し徳富氏の幕府嘲罵と其の不明
 薩藩々論の統一は維新既に成れる後の事実
 幕政下の社会組織と史家の盲断
 徳富氏の勝海舟礼賛を読みての所感
 近藤勇の甲州出陣と勝海舟の共謀
 会津武士の思出の記と勝海舟の卑怯
 江戸開城と勝西郷の所謂功績と真相
 山岡自身の述べたる西郷と山岡の談判
 二本松藩侯夫人の避難実記
 岩瀬肥後守の人物と事業
 幕府倒滅の理由に関する徳富氏の評論
 横浜開港の恩人水野筑後守と其記録
 江戸城降服と川路左衛門尉の武士道自害
 井伊大老の勇断と其の合理性
 水野筑後守の国政改革意見
 水野筑後守と佐賀鍋島侯との応接
 水野筑後守の拓殖政策
 小粟上野介と米国
 小栗上野介の祟りを怖れたる村民
 小栗上野介の財産と掠奪
 最後の江戸城会議と小栗上野介の武士的態度
 露艦の対馬占領と小粟上野介の心事
 小栗上野介後年の書面と幕府の史実
 小栗上野介の外国語の能力
 幕末江戸市内の不穏と小粟上野の硬論
 小粟上野介の権田村に斬らるゝ折
 小栗父子の墓所及老女の自害共他の事実
 小栗上野介と剣道の極意
 小栗上野介の容貌風采人物
 小栗上野介に関する今人の見解
  @小栗の死と其の国民的反響 A史家花見朔己氏の論評 B福原虎雄氏の小栗の死に対する批評 C野田寛氏の小 栗の死に関する私信 D中里介山氏の小栗に関する論評 E中村修二氏の小栗の死に対する論評 F吉田絃二郎氏の小栗と魯艦問題
 小栗上野の死に封する諸名士の書簡 
  @渡邊修二郎 A江木翼 B三上参次 C倉富法学 D小笠原長生 E柴五郎 F畑陸軍大將 G米山梅吉 H篠田法学博士 I中村政太郎 J石井孝一 K佐野朝男 L花見朔己 M岡田良平 N大隈熊子夫人 O権田村長市川元吉
 中村孝也博士の小栗上州論と之れに対する余の批判
 藤巻東郊氏の「蜷川博士と小栗上野の死」 
 狼巌山人の「幕末の政争と小粟上野」 
 降服の犠牲となれる旗本八萬騎以下無数の江戸人 
 江戸全市八萬旗本屋敷の没収

 (以下略)


 官軍意識との戦い
  東善寺住職 村上 泰賢
 官軍という言葉がある。「官」の反対語は「民」であるのに、どうしたことか「官軍」の反対語が「民軍」にならず「賊軍」となる。世の中はそれほど単純なものではあるまい。こうなると「官軍」はよろしくない決めつけ言葉となるから、私は使わないようにしている。

 小栗上野介は幕府解散で勘定奉行はじめ陸軍奉行などの兼職も一切解かれたので、幕府から帰農隠棲の許可を得て家族と共に知行地の上州権田村に移り、東善寺に仮住まいした。ところが居宅を造り始めて二ヶ月後、やってきた西軍によって養嗣子又一及び家臣六名とともに殺されてしまった。
 いま、小栗が斬首された水沼河原(高崎市倉渕町)に、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と彫られた顕彰慰霊碑が立ち、終焉の地であることを示している。この碑文の揮毫者が本書の著者であり小栗道子夫人の妹はつ子が母の蜷川新である。
 石碑は、斬首された河原(本書のグラビアページ参照)を守って草刈りを続けてきた一村民の「このままでは小栗様が殺された場所がわからなくなって忘れられてしまうから、石碑でも建てて…」という訴えを契機として、旧倉田村・烏渕村の両村民有志が建立計画を起こし、蜷川に碑文の揮毫を依頼した。蜷川は前記碑文と、もう一枚「幕末の偉人 小栗上野終焉地」と計二枚を書いて届け、村人に選択を委ねた。村人は協議の末、こちらが本当、と前者を選んで彫った。このような散文体の記念碑は珍しいといわれる。
 
 さて、戦前はこういった建碑はすべて内務省に届け出ることになっていた。表現の制限がここまで及んでいた時代である。所轄の高崎警察署に届けると、署長から「碑文に『罪なくして…斬らる』とあるが小栗を斬ったのは官軍だ。官軍は天皇様の軍隊だから罪のない者を斬るはずがない。穏やかでないから何とかしろ」とクレームがついた。別の碑文に彫り直せ、という強権指導である。
 困った建設委員長市川元吉は、その窮状を蜷川に報告して対処を相談した。すると蜷川から「田中義一(総理大臣)に話をさせるから、待っていなさい」と返信があった。国際法学者として活躍する蜷川は、田中義一から国際問題に関して諮問を受け、助言をする立場にあった。間もなく署長のクレームは沙汰止みとなり、昭和七年五月に除幕式にこぎつけた。もう一枚は高崎市役所倉渕支所に額装で掲示されている。
 署長が口にした「官軍が罪のない者を斬るはずがない」という認識と、明治新政府の対極にいた人物は逆賊、賊軍とする意識は、この署長のみならず明治以後の官僚、軍人、そして多くの国民が抱いていた通念であろう。民主主義の反対だから官主主義と名づけていい官軍意識である。

 しかし、世界中の軍隊で「何をしても正しい軍隊」が存在したことがかつてあったろうか。昭和二〇年の敗戦でこの官軍意識は払拭されたはずであったが、じつはいまだにこの国にはびこっていて、たとえば福島の原発事故も官主主義で進めてきたことの破綻とみられる。
 蜷川は国際法学者としての視点で、幕末明治の政争と明治新政府の汚点とも言うべき小栗主従殺害の理不尽を本書で鋭く指摘し、今では所在が不明な貴重な古文書を駆使して小栗の業績と悲惨な末路を確認することに力を注ぐ。そして時に薩長政府を攻撃する言葉が激越なものとなるのは、上野介の義理の甥という身内の視点が入ることもあろうが、文中に「官軍」の語を普通に用いているように、当時の通念を無意識のうちに受け入れてしまっているジレンマからであろうか。

 遠慮会釈なく痛烈に攘夷派や薩長政府の矛盾を攻撃する内容に「こんな怖い本は出せません」と幾つもの出版社から断られたすえ、説得して昭和三年に本書の刊行にこぎつけるとたちまち売り切れ、わずか二週間に四版を重ね、三年後に「続」までも出版するベストセラーとなった。
 明治二年、村人は館林に運ばれ首実検後に埋められていた小栗父子の首級を盗掘して遺体に戻し、明治政府の管理下のものを盗んだのだから永いこと(昭和三十年代後半まで)これを秘していた。これも官軍意識との戦いといえなくもない。(高崎市倉渕町権田)
(本書パンフレットより)


不朽の史論『維新前後の政争と小栗上野』(正続)
 作家 中村 彰彦
 江戸時代に豊臣秀吉が全く評価されなかったのに似て、明治時代にはかつて幕府を支えた人々が賊徒の一言で片付けられてしまうという悪しき傾向があった。

 これら史観とも言えない史観に抗して旧会津藩の立場をあきらかにしたのが北原雅長『七年史』(明治37年〈1904〉)と男爵山川浩遺稿『京都守護職始末』(明治44年〈1911〉)であったことは、マツノ書店の出版活動の理解者ならばとうにご存知のことと思う。故なき誹謗を浴びるばかりだった旧幕府関係者の雪冤を目的とする史論は、明治も末になってようやく出版されはじめたのである。

 さらに昭和3年(1928)は明治維新から数えて六十年目の戊辰の年であったため空前の幕末維新ブームとなり、東京日日新聞は『戊辰物語』を連載(のち岩波文庫)。その執筆メンバーの一人だった子母澤寛は、同年中に『新選組始末記』(のち中公文庫)も上梓した。

 本書『維新前後の政争と小栗上野の死』正編が同年9月に刊行されたのも、出版界の右のようなブームに押されてのことであったかもしれない。ただし本書は決して便乗出版≠ネどではなく、著者蜷川新は歴史学者顔負けのひろい知識と圧倒的な筆力により、間違いなく幕府の名官僚のひとりであった小栗上野介忠順の多岐にわたった業績を紹介して余すところがない。

 小栗の業績としては、以下のようなことどもを挙げることが出来よう。万延元年(1860)正月、初めての遣米使節団の正使新見正興、副使村垣範正に目付として同行したこと。文久二年(1862)六月には幕府陸軍の洋式軍制改革にあたったこと。元治元年(一八六四)八月から慶応元年(1865)2月にかけて勘定奉行、軍艦奉行を歴任し、フランス公使ロッシュと交渉して横須賀製鉄所の建設を決定したこと。

 余談ながら日露戦争がおわってまもなく東郷平八郎・聯合艦隊司令長官が小栗家の遺族を訪問し、我々がバルチック艦隊を撃滅できたのは忠順氏が横須賀製鉄所を造っておいて下さったからだ、と礼を述べたという佳話があるのも忠順の慧眼のほどを良く示している。

 慶応元年五月から勘定奉行に復したかれは、事実上の日本の蔵相として関税率の改定に成功。フランスとの間に六百万ドルの借款契約を結んだかと思えば、兵庫商社を設立したりもした。著者蜷川はこの人物を、
「国家として是非とも用ひられざる可らざる重要の能臣」
「幕府の為めに是非とも無くてはならぬ人物であったのである」
 と高く評価しており、右に列挙した諸点を小栗忠順の功績とすることでは、『国史大辞典』も日本歴史学会編『明治維新人名辞典』も共通している。前者が参考文献として本書を、おなじく後者が本書と『続 維新前後の政争と小栗上野』を挙げているといえば、これらの二著が小栗忠順の雪冤と再評価を決定づけた不朽の史論であることがおわかりいただけよう。

 もってこれらの二著をお勧めするゆえんであるが、著者の「歴史学者顔負けのひろい知識」については続編から一例を引いておこう。
「江戸開城と勝西郷の所謂功績と真相」の項は、西郷が勝海舟の意見に共鳴して江戸総攻撃を中止したというのは俗説に過ぎず、事実はイギリス公使パークスの干渉によって攻撃を思い止まったのだと論じている、いわば西郷はその人間性から無血開城を志向したのではなく、パークスの外圧に屈して総攻撃を中止せざるを得なかったというのである。

 蜷川新がそう論じて40年以上たってから書かれた大佛次郎『天皇の世紀』の「江戸攻め」の章には、西郷に対するパークスの態度がより具体的に書かれている。パークスは、
「抗戦にも出ない徳川慶喜を官軍が過酷に処罰しようとしているのは、国際輿論に逆行するもので不都合だ」
 と称して何らかの外交処置に出ようとしていた、というのだ。
 このような点から見ても著者の歴史観には端倪すべからざるものが感じられるので、正編と続編にやや重複する記述があるのは承知の上でこれらの二著をおすすめしたい。
(本書パンフレットより)