佐渡奉行をはじめ内政・海防から初のロシア領土問題解決まで
大きな足跡を残した幕府高官川路聖謨の生涯を伝える活瀚な伝記
川路聖謨之生涯
  川路寛堂・編述
   マツノ書店 復刻版 ※原本は明治36年
   2014年刊行 A5判 上製函入 759頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 『川路聖謨之生涯』の味わい深さ
  作 家 中村 彰彦
 江戸幕府は、なかなか良い官僚育成制度を工夫していた。布衣(御目見以上)の者の嫡男が武芸、学力のいずれかの試験に合格し、「番入り」といって書院番組か小姓番組に入ることを許されると、いずれは徒頭、小十人頭などを経て目付や遠国奉行に登用される道がひらけるのだ。

 川路聖謨(享和元年〈1801〉〜慶応四年〈1868〉)の場合はエリートとして「番入り」から出世街道を歩みはじめたわけではなかったが、文化九年(1812)、徒士という下級の身分の家から小普請組の川路光房のもとへ養子入りしたころから運がひらけた。小普請組支配の石川忠房(のち勘定奉行)に才気を認められて、十八歳にして勘定所の筆算吟味の試験に合格。翌文政元年(1818)に支配勘定出役に採用されるや、評定所留役(書留役)、寺社奉行吟味物調役当分助、勘定組頭格と昇進し、能吏としてひろく知られるに至るのである。

 その間に聖謨が裁定に関与した最大の事件は、文政十二年、但馬出石藩に勃発した仙石騒動であった。
 これは一言で言えば、藩の財政建て直しをめぐる仙石左京ら改革派と仙石酒造ら保守派の争い。聖謨は寺社奉行脇坂安菫(播州龍野藩主)に命じられていわば予審判事の役をつとめ、結果として仙石左京を獄門、ほかに死罪二名、遠島三名、関係した老中松平康任は隠居謹慎、幼君道之助は閉門、出石藩は五万八千石から三万石に減封という峻烈な裁断を導き出した。
 当時、江戸ではこの裁定を称えるあまりに、
「五万石でも脇坂様は花のお江戸で知恵頭」
 と謳われたほどであり、聖謨の名も十一代将軍家斉や老中首座大久保忠真に知られるに至った。そのため仙石騒動が一件落着となった天保六年(1835)、かれは勘定吟味役という名の幕府会計の監督官に登用され、これまで九十俵三人扶持でしかなかった収入は五百石に役高三百俵と十倍近くにふくれ上がった。

 本書『川路聖謨之生涯』は、右のような足跡を歴史に刻むことから始まった有能な幕臣の一生を克明にたどった伝記である。天保十一年佐渡奉行、弘化三年(1846)奈良奉行、嘉永四年(1851)大坂町奉行と遠国奉行をも歴任した聖謨は『島根のすさみ』『寧府紀事』などの著作や日記を残した文章家でもあり、本書の編述者川路寛堂(幼名太郎)はその孫に当たる。それだけに本書の記述には川路家に伝わる文書類ばかりか聖謨が寛堂にじかに語り残したところに負う秘話も少なくなく、他の追随を許さぬ評伝となっている。 

 聖謨の一世一代の晴れ舞台が、ロシア使節プチャーチンとの日露国境画定交渉であったことはよく知られていよう。すなわち嘉永六年(1853)六月三日にペリーが来航してからわずか一カ月半後の七月十八日、プチャーチンが軍艦四隻を率いて長崎にあらわれたと報じられて同地出張を命じられたのが、勘定奉行と海防掛を兼ねていた聖謨であった。
 カラフトの国境は北緯五十度をもってし、千島列島方面においてはウルップまでを日本領とする。こういった腹案で交渉を開始した聖謨に対し、プチャーチンはカラフトは全島、千島列島方面ではウルップまでがロシア領だ主張して止まなかった。

 老中首座阿部正弘にしても右のような中間報告を受けて不安を覚え、聖謨に伝えた。
「談判の形勢に依ては、是迄の訓令を放棄し、臨機の処置あるも、妨げなし」
 この時の聖謨の反応について、本書が「聖謨日記」を引いて、
「身は差上置致たれば、心配なし」
 つまり、体は国に差し上げたものであるから気にしないでほしい、という不退転の覚悟で再交渉にあたったことをあきらかにしているのは、まことに興味深い。昨今の日本の政治家ないし官僚には外交音痴が多いそうだが、鎖国政策を開国に切り換えて初めての国境画定交渉に際しては、外交のガの字も知らなかったはずの聖謨が誠心誠意対応することによってみごとな果実を手にしたのである。

 このことについても、本書は「聖謨日記」を引用することによって交渉の水面下の事情を伝えている。
「魯西亜は、虎狼之国と世に申候、然るや。又は、信義の国なりや、いかに。道理を守らば、わがことに随ひ候へとて、理をつくし候て申諭候処、大に承伏いたし候而、エトロフへ立入間敷、カラフトに手さしいだし不申差出置候軍兵、引払可申旨申之、すらすらと参り可申体なり」
 カラフトは両国雑居の地と定められたものの千島列島方面の国境はエトロフ島とウルップ島の間とされたから、この外交交渉は実質上日本の勝利に終わったわけである。

 しかも本書の味わい深いところは、右のような結果を述べて次の話に進んでしまうのではなく、聖謨とプチャーチン及びその書記官との人間関係にも踏み込んでいる点であろう。嘉永七年一月、再会した聖謨とプチャーチンが日露和親条約締結の予備交渉をおこなった時のやりとりは、特に印象深い。
 ロシア艦内で晩餐会が開かれて互いに酒杯を重ねると、プチャーチンの書記官が聖謨の持つ白扇をもらい受けてから、懐中時計を見せてほしい、といった。聖謨のそれが銀側の品に糸紐をつけただけのものと知った書記官は、糸紐を金鎖につけ替えてこういった。
「これ過刻恵まれし美扇の酬答、且は記念のためとして、受納ありたし」
 驚いた聖謨が固辞しても、相手は承諾してくれない。するとプチャーチンが、
「余にも、全権の御時計を、みせ給へよ」
 と口を挟んでまだ書記官の手にしていた懐中時計を受け取り、聖謨に伝えた。
「此御時計と、鎖りとは、色の連合、少しあしければ、今余をして一小時儀を、川(路)全権に呈することを許さしめよ」
 プチャーチンは銀側の懐中時計に金の鎖は似合わないと理由をつけ、金時計に金の鎖をつけ替えて聖謨にプレゼントしたのである。

 これをもってしても日露両国を代表した二人の個性が察せられ、このような味わい深さが本書を浩瀚ながら滋味豊かな史伝たらしめていることがおわかり頂けるのではあるまいか。
 なお本書は第一章、第二章といった章立てをせず、「聖謨の父」「聖謨生る」といった小見出しの次に地の文が続くという筆法がとられている。そして結尾近くには「聖謨、辞世の詩歌を記す」「聖謨自殺す(明治元年三月十五日)」という小見出しが立てられる。文久三年(1863)に隠居、慶応二年(1866)には中風の発作を起こして左半身不随となっていた聖謨は、江戸城が官軍に引き渡されたという噂の真偽も確かめず腹を切り、ピストルで喉を撃って幕府に殉じたのである。
 幕府を代表する名官僚川路左衛門尉聖謨は、享年六十八であった。

 なお本書元版は明治36年(1903)10月の出版であり、昭和45年(1970)9月に世界文庫から覆刻された際の部数は限定九百三十部、頒価は一万三千円であった。私の架蔵しているのはその内のナンバー315だが、定評ある日本歴史学会編『明治維新人名辞典』なども聖謨についての参考文献としては、本書を第一等に推している。 
 幕末維新史に関心のある皆さんにあえてお薦めするゆえんである。
(本書パンフレットより)